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セルビア近代美術のパイオニア ナデジュダ・ペトロヴィッチ【セルビアの女性画家・第一回】

【文/山崎 佳夏子】

みなさんはセルビアの美術というとどんなイメージを抱くでしょうか?

世界的に知られているのはセルビア正教会のフレスコ画やイコン、そしてナイーヴ・アートでしょう。また、現代美術の分野ではマリーナ・アブラモヴィッチをはじめ、セルビア出身のたくさんのアーティストたちが世界で活躍しています。

今回は、セルビアの外ではあまり知られていないセルビアの女性画家について紹介したいと思います。第一回は「セルビア近代美術のパイオニア」と呼ばれている画家ナデジュダ・ペトロヴィッチ(Nadežda Petrović, 1873-1915)です。セルビアの200ディナール紙幣にもなっている人物なので、セルビアへ来たことがある人はきっと彼女の顔を目にしていることでしょう。

ナデジュダは1873年にセルビア中部のチャチャックに生まれました。幼い頃から叔父に絵画を学び、女子高等学校に通う頃には画家ジョルジェ・クルスティッチに師事し、本格的に絵画を学びます。当時のセルビアの社会では女性が高等教育を受け、そして絵画の勉強をすることは大変珍しいことでした。それに教育を受けたとしても、その後は結婚し家庭に入るのが普通でした。

当時のセルビアには美術アカデミーがなかったので、ナデジュダはさらに絵画の勉強をするためにミュンヘンへ行き、ミュンヘンで評判のスロヴェニア人の画家アントン・アジュベの絵画塾に入学します。この絵画塾は表現主義の画家ワシリー・カンディンスキーが学んでいたことで知られていますが、ナデジュダもここで表現主義のスタイルに傾倒していきます。刺激的なミュンヘンで、ナデジュダは画家として生きることを覚悟します。ナデジュダにとってそれは、結婚し家庭に入ることを放棄することも意味していました。

《自画像》(1907年)ナデジュダが生涯で描いた唯一の自画像。

ミュンヘンで五年過ごした後、ナデジュダはセルビアへ帰国します。この時期のバルカン地域では、南スラヴ人たちが協調しオーストリア=ハンガリー帝国やオスマン帝国の大国支配からの解放を目指す運動が活発化していました。ナデジュダも帰国後に、セルビアの女性達と「セルビア姉妹団」という団体を創設し、反オスマン帝国運動が行われたマケドニアへ人道支援に行きます。

ナデジュダは芸術・文化においても南スラヴ人同士の連帯が必要であり、作品にも南スラヴ的特性が必要だと考えました。クロアチア人の彫刻家イヴァン・メシュトロヴィッチらと共にユーゴスラヴィア主義運動に参加し、南スラヴ人の芸術家の作品を集めたユーゴスラヴィア美術展の企画に参加しました。さらにクロアチアやスロヴェニアの仲間の芸術家をセルビア南部のニシュ近くのシチェヴォ村へ呼び寄せ、ユーゴスラヴィア美術コロニーを開きました。ちなみにこのコロニーはバルカン地域初の美術コロニーであり、現在も毎年夏に国内外から芸術家がシチェヴォへ集まり創作活動が行われています。

1912年にバルカン戦争が始まると従軍看護婦として前線へ行きました。戦争中に彼女が描いたコソボのグラチャニッツァ修道院の風景はセルビア人の心を表したイメージとして今も人気があります。第一次世界大戦でも看護師として戦場へ行きましたが、チフスを発症し、1915年にセルビア西部のヴァリェヴォの病院で亡くなりました。

ナデジュダは、表現主義や印象派、フォーヴィズムなど当時のヨーロッパで前衛とされた様式を受け入れ、自分の表現を目指しました。当時の美術界は男性中心でしたから、そのような前衛の絵画の中に、女性でも自由に表現ができる新しさを見出したのでしょう。

様式の先進性も確かですが、20世紀の新しい女性像を切り開いたことも含めて「セルビア近代美術のパイオニア」の画家でした。

《赤い芍薬》(1913年)赤い芍薬の花は1389年のコソボの戦いで流されたセルビアの兵士の血の象徴。

【文/山崎佳夏子】美術史家。ベオグラード在住。岡山大学大学院在籍中に1年半ベオグラードへ留学し、セルビアの近代美術の研究をする。一時帰国を経て再度ベオグラードへ渡航し結婚。現在は0歳児の育児中。主な著作に『スロヴェニアを知るための60章』(共著、明石書店、2017年)、『ボスニア・ヘルツェゴヴィナを知るための60章』(共著、明石書店、2019年)(共に美術の章の担当)。

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