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セルビア修道院めぐり(3)ソポチャニ修道院(Manastir Sopoćani)

【文/嶋田 紗千】

前回紹介したジュルジェヴィ・ストゥポヴィ修道院があるノヴィ・パザル(Novi Pazar)にはもう一つ有名なソポチャニ修道院があります。迎えに来てくれた修復家の親方がちょうど作業をしていたので、連れて行ってもらいました。聖堂を修復する場合、数人から20名くらいのチームを組んで行います。この時、至聖所(イコノスタシスの祭壇側)の作業をしていたので、メンバーが男性のみでした。聖堂で最も神聖な至聖所は女人禁制となっています。修復作業でも教会のルールが守られることに若干驚きました。ちなみに女性が親方のチームは至聖所の作業だけ、男性親方のチームに頼むそうです。これを聞いて、ちょっと複雑な気分になりました。

話は戻りますが、なぜ修道院が2つもあるのかというと中世セルビア王国ネマニャ朝の初期首都ラスがあった地だからです。現在もかつての片鱗がみられ、古都を守った要塞の一部や、8世紀に建立された聖使徒ペテロとパウロ聖堂(通称、ペトロヴァ聖堂)、12世紀末のジョルジェヴィ・ストゥポヴィ修道院、そして今回ご紹介する13世紀後半のソポチャニ修道院があります。それらをすべてまとめて1979年に世界遺産に登録されました。

ソポチャニ修道院外観(2019年)

ソポチャニ修道院は、中世セルビア王国ネマニャ朝第5代国王ステファン・ウロシュ1世(Stefan Uroš I Nemanjić, 約1223-1277年)によって建立されたセルビアを代表する修道院です。フレスコ画の画家については未だ明らかになっておらず、おそらくコンスタンティノープルから来た画家、もしくはそこで修業した画家による作と考えられています 。ビザンティン美術におけるコムネノス朝からパレオロゴス朝ルネサンスの過渡期を示す聖堂装飾と言われ、タイプの異なるフレスコ画を見ることができます。

ソポチャニ修道院は、オスマン帝国統治下で火災が起こり、修道士は去り、1689年に屋根の鉛が剥がされて以降、長い間廃墟でした。屋根を失った聖堂が再び息を吹き返すのは、1926-28年の大規模な修復作業以降です。その後、何度となく修復が繰り返され、建築は補強され、フレスコ画は余分なものが取り除かれ、徐々に輝きを取り戻していきました。

ソポチャニ修道院外観(1926年)

ソポチャニはラシュカ川の源流の近くにあることから、「源流、泉」を意味する古スラヴ語「ソポト(sopot)」から「ソポトの修道院」と呼ばれ、のちに「ソポチャニ修道院」と呼ばれるようになりました。セルビアの修道院の名称は、以前もご紹介したように地名や河川名、または寄進者の名前に由来することが多いため、非常に珍しい命名です。

ソポチャニ修道院の聖三位一体聖堂は、ラシュカ様式でドームを一つ持った単廊式建築です。単廊はナオス(身廊)と内ナルテックス(聖堂内の前室)に別れ、それぞれ天井が高く、広い空間となっています。外ナルテックス(聖堂外の前室)は屋根と柱のみの開放的な空間で、のちにプリズレンのボゴロディツァ・リェヴィシュカ聖堂(Crkva Bogorodica Ljeviška)、グラチャニツァ修道院(Manastir Gračanica)、ペーチ総主教座修道院(Manastir Pećika patrijaršija)でも見られる構造です。その西端には、3階建ての鐘楼があります。

最も有名なフレスコ画は、ナオスに描かれた「聖母の眠り」です。亡くなった聖母が寝台に横たわり、その周りに多くの人々が集まり、聖母の死を悲しんでいるところへ魂を迎えにキリストが現れる場面です。一人一人の表情が豊かで、ボリューム感のある人物表現は13世紀後半に描かれたとは思えないほど写実的です。

聖堂内ナオス西壁「聖母の眠り」

200年以上も野晒し状態だったにも関わらず、フレスコ画がこのように残っていたというのは本当に奇跡だと思います。その理由は2つあります。一つはフレスコ画が湿った状態の漆喰に直接顔料で描くため、壁に色が染み込む性質があること。もう一つは、何百年も典礼で使用されたことで、乳香やろうそくの煤などが壁に付着し、ある種コーティングされたために顔料が流れなかったことがあげられます。大幅な修復作業が必要でしたが、今も美しいフレスコ画を見ることができます。

今もさまざまな調査が行われています。2014年の報告書によると、黒色化したニンブス(光輪)はかつて金箔で覆われており、その下から銀化合物が見つかったそうです。それらの成分配合から、金はフィレンツェのフロリン貨、銀はヴェネツィアのグロッソ貨と同じであることがわかったそうです。金と銀は当時のセルビア領内でも採れる鉱物ですが、なぜイタリアのコインと同じ成分配合だったのか不思議ですね。

ソポチャニ修道院聖堂内観

【文/嶋田紗千(Sachi Shimada)】美術史家。岡山大学大学院在学中にベオグラード大学哲学部美術史学科へ3年間留学。帰国後、群馬県立近代美術館、世田谷美術館などで学芸員を務め、現在、実践女子大学非常勤講師。専門は東欧美術史、特にセルビア中世美術史。『中欧・東欧文化事典』丸善出版(2021年7月発行予定)に執筆。フレスコ画の調査で山の中の修道院へ行くことが多いため、ヒッチハイクがセルビアで上達した。

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