【文/山崎 佳夏子】
ベオグラードアート通信の連載も気づけば前回の更新から一年近く時間が経ってしまった。日本でも何度かニュースで取り上げられているが、セルビアは昨年11月2日に発生した死者16名を出したノヴィサド駅舎の崩落事故をきっかけに、市民の現政権に対する不満が爆発し、学生たちによってセルビア各地の大学が封鎖された。大学の封鎖は昨年11月末に始まり、学生支持及び反政府を掲げた巨大なデモがノヴィサドやベオグラードだけでなく全国各地で実行された。反政府派によるデモや道路封鎖は何度も実行され、現政権も集会を計画するなど、あらゆる方法で反政府派に対抗した。両者の対立は深まり、国民の心理的な分断と社会一般に対する不安は大きなものとなってしまった。
単なるいいわけだが、この一年はアートシーンもこの社会状況の煽りを受けていたので、個人的に新しい記事が少々書きづらかった。大学の封鎖は今年の夏ごろに警察が大きく介入し解かれたが、未だなお紛争は完全には解決していない。現在は展覧会など文化的なイベントはある程度普通に行われるようになり、一応の平穏は保たれている。

9月に、ベオグラード応用美術館で開催されたアルパド・プーライ(Arpad Pulai)による個展「痛みのトポグラフィー」を見に行った。プーライは1986年にセルビアのブルバスに生まれ、ベオグラード応用美術大学のテキスタイルデザイン科で学び、セルビアを拠点にテキスタイルやファイバーアートを専門に制作しているアーティストである。
ベオグラードアート通信でもヤゴダ・ブイッチを取り上げたが、プーライはユーゴスラヴィア時代からのファイバーアート文化を受け継ぐ人物だ。本展覧会では羊毛フェルトや毛糸で編んだ作品が会場に並び、穏やかな生成り色の優しい空間が作られている。羊毛フェルトでここまで大きな立体物を作れるというのは、羊の飼育が盛んなセルビアらしいと言えるが、その制作の労力はものすごいものである。フェルト制作のプロセスである針を刺す作業には出血が伴うことも会場では写真として展示されており、個展のタイトルの「痛み」にはその意味も含まれている。

ウェットフェルト, ニードルフェルト, 刺繍, ニッティング(ドラギッツァ・プーライによる)
石膏製作(ニコラ・マルコヴィッチによる)
人間の暴力的な破壊行為によって自然が感じる「痛み」は、長年自然と人間の関係、エコロジーをテーマに制作してきたプーライにとって重要なものだ。耳を人間に掴まれたうさぎたちと、うさぎの片耳が入って履けないようになっているセルビアの伝統的なデザインの羊毛の靴下の並ぶ《バイ、バイ》は、ファンシーな印象だが人間の生産活動の中には動物へ向けた暴力があることを直接的に表している。
《スーパー・エゴロジー・マン》を含む「エゴ三部作」は、フェルトによる人物彫刻である。ポージングはギリシャ彫刻などの古典的なものをわずかに思い起こさせる。しかし、ブロンズや木材などの素材では表面が美しく滑らかであることが求められるが、彼の作品はフェルトの特性を利用し表面はあえて滑らかではない。ボコボコと突起した皮膚は健康的な肌とは言えない病的なものであり、フェルトという素材が「伝統的な美」の対極にあるものだということを物語っている。

ウェットフェルト, ニードルフェルト

ウェットフェルト, ニードルフェルト
現代美術でフェルトといえば、ヨーゼフ・ボイスが連想させられる。フェルトのジョッキー帽に脂肪が満たされた作品やフェルト・スーツなどの作品で知られるボイスは「社会彫刻」の概念を掲げ、環境保護運動に熱心に取り組んだ現代美術家であった。プーライとボイスは、エコロジー、フェルト、さらにボイスが意識していた「ユーラシア」のイメージは東西の文化のクロスロードと呼ばれるセルビアにも当てはまり、多くの共通点があると言えるだろう。
共通点は多いがプーライの作品は、ボイスの作品とは雰囲気が全く異なる。それはボイスのフェルトの帽子やスーツは工業による「既製品(レディメイド)」であることに対し、プーライの作品の元にあるものは、手編みの靴下や刺繍という機械を介さずに作られた「ハンドメイド」だからであろう。ボイスは「自然」と「美術」を直接結びつけたが、プーライは「自然」と「美術」の間に「手工芸」が存在していることを示している。

ウェットフェルト, ニードルフェルト, クロッシェ編み(ドラギッツァ・プーライによる)
フェルトや編み物、陶芸、木工など、手工芸は、素材がまだ無の状態から制作し、触り続けることで形が出来上がっていく。機械を使わなければ使わないほど制作に時間はかかるが、素材に直接触れる時間は長くなり、意識的にも無意識にも素材の根源にある自然を感じる時間は長くなる。
ほんの少し前の時代まで手工芸は日常のあらゆるレベルで存在していた。しかし現代は手作りは「効率の悪いもの」とされている。人間自身も機械に対して自信を失くしており、何か手で作ろうと思っても既製品のように正しく作らなければいけないと思い込み、行為への自由がなくなっている。だが手芸は機械ではいちいち対応できないようなちょっとした個人の好み、ニーズにさっと対応できるのが良いところであり、何か特別なものを求めるのならば結果的に効率が良いと言えなくもない。
無駄をとことん削ぎ落とし最新のテクノロジーが発揮された空間と、膨大な時間をかけ手作業で制作された生活必需品ではない美術作品を比較した時、どちらが豊かな文化だと言えるだろうか。あるいは、どちらの方が「思い」を直接的に人間に伝えるメディアなのだろうか。プーライが応用美術館に作ったこの空間はこのような現代社会の問題を、力強くも謙虚に提起している。

ウェットフェルト, ニードルフェルト, ニッティング(ドラギッツァ・プーライによる)
シルクスクリーン, 刺繍
場所情報
Muzej primenjene umetnosti (Museum of Applied Arts)
住所: Vuka Karadžića 18, Beograd 11000
【文/山崎 佳夏子】美術史研究家。ベオグラード在住。岡山大学大学院在籍中に1年半ベオグラードへ留学し、セルビアの近代美術の研究をする。一時帰国を経て再度ベオグラードへ渡航し結婚。2020年に生まれた長男の育児中。主な著作に『スロヴェニアを知るための60章』(共著、明石書店、2017年)、『ボスニア・ヘルツェゴヴィナを知るための60章』(共著、明石書店、2019年)(共に美術の章の担当)。

