【文/山崎 洋】
写真家の長見有方さんの案内で、銀座奥野ビル306号室を初めて訪れたときのこと。共同運営者のひとり、田島木綿さんから、この画廊でミラン・トゥーツォビッチ展を開きたいとの要請があり、一時帰国中に下見をしておこうと思った。田島さんとは、彼女がベオグラードのニューモーメント・ギャラリーで個展を開いたとき、オープニングに招いてあったミランを紹介して以来の付き合いだ。その出会いがこの企画を生んだ。ぜひ実現させてあげたいと思った。
会場に一歩踏み入れたとたんに、脚がとまった。白塗りの壁に照明が当たり、作品が並んでいる。画廊といえばそういうものを想像していた私には一瞬、信じられない光景だった。白い壁も、明かりも、絵もない。大きい部屋には鏡が掛かっている。そういえば、入り口に「須田美容室」の看板があった。ここは美容院だったのだ。そう思ったとたん、足下でピシャ。水溜りを踏んだ。屋根裏ならともかく、どうして雨漏りが。不思議に思いながら次の部屋に進んだとき、男性が現れて、私が踏んだ床の水溜りにペットボトルから水を注いでいるのが見えた。あれは彼の「作品」だったのか。この空間にミランのイコンにも似た油絵が並ぶ光景が想像できないまま、視察を終えた。
ベオグラードに戻ってから早速、ミラン夫妻を我が家に招き、ささやかな夕食会を催した。ラキヤ(火酒)を勧め、赤ワインを開け、気分を盛り上げてから、おもむろに預かってきた会場の図面を広げ、撮ってきた写真を見せる。上流階級の婦女子を相手に「美」を生み出す美容室だった空間で、若いアーティストたちが、当時の雰囲気をそのままに、別の仕方で「美」を生み出している。田島さんの説明をそのまま伝える。「こんなところじゃ展覧会は無理だよ」。私にはそんなミランの言葉が聞こえるような気がして、ワインの味も分からなかった。と、ミランの表情が変わった。「アイデアが浮かんできた。やろう」。空になっていたグラスに慌ててワインを注ぎ、乾杯。いつもより美味しく感じられた。芸術家の心の中に霊感がひらめき、作品の構想が生まれる稀有の瞬間に居合わせた幸せ。目の前のミランは、まるで初めて見るような不思議な存在になっていた。
しばらくしてミランのアトリエを兼ねたウロボロス画廊から案内状が届いた。日本で展示する作品のお披露目があるという。
アトリエはミランのファンで一杯だった。白い壁には照明が当たっており、光の輪の中に作品が並んでいる。まずは、生まれ故郷に近いポジェガの町のふたりの理髪師の肖像をあしらったオブジェ。ふたりは町の名物男だった。次に、バリカンを発明したセルビアの理髪師の肖像画。当時の床屋は剃刀と櫛と鋏を誇りにしていて、バリカンを使おうという者はおらず、彼はイギリスに移住して特許を取る。ちなみにバリカンとは、彼のライセンスでこの道具を生産していたフランスのメーカーの名前で、日本の輸入業者が製品の名称と勘違いしたのだそうだ。最後に、親しい友人たちの肖像画。理髪店の客という趣向だが、ミーラ夫人をはじめ女ばかりで、男は画家のサーシャ・マリアノビッチと私の二人だけ。私のように髪も髭もない人間を床屋に連れてくる画家の想像力の凄さ。もっとも、かつては用もないのに床屋を訪れてお喋りを楽しむ客も少なくなかったという。理髪店はどこでも浮世床なのだ。
ここに描かれた人びとが、ミランとともに東京に行き、銀座奥野ビルに美容師の須田さんを訪ねて交流する。この作品群を結び付けるストーリーはミラン自身がカタログのために書いたテキストがあるので、それを読んでいただきたい。作者の許可を得ることはもはやできないが、訳者の権利を行使して再録する。
ポジェガ。町の中心には円い広場があって、いかにも田舎町らしいたたずまいだ。広場のまわりには市役所、党委員会、図書館、青空市場への入口、郵便局、そして店がいくつか。それと向かい合うように、小さな理髪店「ミチュンとムシツァ」がある。二人の理髪師と客たちは毎日、町の出来事を追い、町の記録を作り出す。ストーブからはオレンジの皮の焦げる香り。彼らは広場を眺め、覚えておく値打ちのある賢明な言葉で批評しあう。新顔の客は、新しいお話。しかめっ面をした市役所の役人が散髪の間、ずっと黙りこくっているのも、お話になる。散髪は行為ではなく、目的を超えた儀式なのだ。
壁には写真がかかり、小さな町を大きな世界へと広げる。ジェリコーの「エプソムの競馬」、小さなドガ、レッド・スター、ドラガ王妃。古ぼけたラジオからはツァレバッツの演奏やシルバナとトーマの演歌が流れ…。
ポジェガの理髪店はもうない。ほかの多くのものと同じように、姿を消した。なぜそんなことが起こるのか、僕はとっくに考えるのをやめた。僕の頭には大きすぎる世界。そんな時、東京は銀座奥野ビル306号室の美容室の話を聞いた。美容室はだいぶ前になくなったが、まだあるのだ。今はギャラリーとなって、須田さんの思い出と、東京の女性たちがここで美しくなった、数十年の記憶を、注意深くまもっている。
なにか僕には知ることのできない法則にしたがって、今、少年時代の理髪店をたずさえ、二人の理髪師と一緒に、須田さんを訪ねていく。ギャラリーには再び、理容ばさみや剃刀、ヘアカーラー、櫛、髪ごて、バリカンなどが並べられ、ツァレバッツやシルバナやトーマのメロディーが流れるだろう。ただ、この新しい、タイムスリップした美容室を訪れる客は、彼らが散髪した客ではない。それは、その訪れがぼくの人生を幸せにしてくれる客。さあ、ここには君の顔を映し出す鏡もある。僕の知らない顔だけど、君はきっと、今はないこの店に新しいお話をもってきたのだ。
これがミラン・トゥーツォビッチにとって、最初の日本訪問となった。渋るミーラ夫人を納得させるため、私も同行することにした。見知らぬ土地への不安。そう考えたからだが、実はもっと深い理由があったらしい。ミランが日本にのめり込み、自分から遠い人間になるのではという予感。
今思えば、ミランと日本との結び付きは、前世からの因縁だったような気がする。私と知り合うよりずっと前、ベオグラードの美術学校時代に日本人の留学生と同室だった。その人もアーティストで、自由人だった。ミランがよく口にした「足の向くまま、気の向くまま」は、その人の口癖だった。銀座奥野ビルの会場に名古屋から訪ねてきて、ミランと劇的な再会を果たした。その人の影響か、ミランには日本画を模した初期作品が何点かある。スケッチの右上に印を捺したように、丸にカタカナで「ミラン」と書いてあるもの。あるいは絵馬のような図の右下に赤く印を描いてあるもの。
日本の芸術に強い関心を示し、直感的に意味を理解した。ベオグラードで狂言の公演があり、誘って出かけたことがあった。演目に「蝸牛」があった。終演後、いつものように居酒屋に向かったが、ミランはずっと「でんでんむしむし」を繰り返し、踊り出さんばかりだった。室町の昔にはじめて「蝸牛」を観た人たちもこんなだったに違いない。そのなかにひょっとしてミランの祖先もいたのではないだろうか。
そういうミランのために、私は歌舞伎座の「義経千本桜」の切符を手に入れた。舞台正面の六列目。数時間におよぶ公演の間中、ミランの手は休まなかった。絵画の本質は動的なものでも一瞬、静止させ、その瞬間を描くことにあるが、ミランは役者が見得を切るのを事前に知っているかのように、その瞬間を捉え、その様式美を紙に写す。ついミランの手の動きに目をとられ、私は舞台に集中できなかった。
狂言、歌舞伎とくれば、あとは能しかない。これがミランの定めであったのか、最後に日本を訪れた際、金春流の桜間右陣さんの招きで稽古場で能を見せてもらった。右陣さんが弟子に手伝わせ、衣装をつけ、面をつける。「胸が震えて涙が出た」。ミランはその時の感動を、帰国後、そう語ってくれた。「いかがでした」と右陣さんに聞かれ、「面をつけるとき、あなたは一度死んで、生まれ変わったと見ました」と答えると、右陣さんは「わたしはいつもそうするように努めています」と答えた、と言うのだ。ミランはどうして能の本質を一瞬にして把握したのだろうか。キリストの「受難」より「復活」を重視する正教会の精神がそうさせたのか。それとも、分野は違っても、最高の芸術家同志は、私たちには分からない仕方で交信するのか。能装束の右陣さんの肖像を中心に、さまざまな仕掛けを施したオブジェを制作すると言う。「正面は両開きのドアではなく、襖のように横に開けるようにしたい。日本だからね」とも。これまでにない作品になる、ミランの新しいスタートになる。私はそんな気がして彼の話を聞いていた。
ミランの思わぬ死で、「桜間右陣像」は幻の名作と化した。銀座奥野ビル306号室に始まったミランの日本の旅も急に中断され、ミランは「足の向くまま、気の向くまま」、天国へ行ってしまった。後にはミランがこの作品のために用意したデッサンが残されている。いつの日か公開されることを願うばかりだ。
<了>
出典:このテキストは「銀座奥野ビル306号室プロジェクト10周年記念誌『306の箱』」に寄せられたものです。
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【文/山崎 洋(やまさき ひろし)】1941年、東京生まれ。翻訳家。1963年、慶應義塾大学経済学部卒業後、ベオグラード大学留学。訳書に、カルデリ『自主管理と民主主義』(大月書店)、カラジッチ『ユーゴスラビアの民話Ⅱセルビア英雄譚』(共訳、恒文社)、ミハイロヴィッチ『南瓜の花が咲いたとき』(未知谷)、ヴケリッチ『ブランコ・ヴケリッチ、日本からの手紙』、ニェゴシュ『山の花環 小宇宙の光』(共訳、幻戯書房)、アンドリッチ『イェレナ、いない女他十三篇』(共訳、幻戯書房)、『古事記』(共訳、RAD社)、松尾芭蕉『おくのほそ道』(TANESI社)など。
【ミラン・トーツォビッチ(Milan Tucović)】 1965年ポジェガ市生まれ。セルビアを代表する画家、現代美術家として、多くの人に愛される。ヨーロッパの美術館やギャラリーで数多くの個展を開催。日本では2012年奥野ビル306プロジェクト、b-stileにて個展を同時開催し、初来日となる。2015年セルビア共和国大使館、2019年早稲田大学の展覧会のため3度来日した。2019年心筋梗塞のため死去。