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イラストでセルビア語を学ぼう〜『イラストで見る慣用表現』出版イベントレポート〜【ベオグラードアート通信・第10回】

【文/山崎 佳夏子

7月のベオグラード。時が止まったかのように連日猛暑日が続いている。最高気温37℃の日が続き、少し前までは夕方になれば少し涼しくなり、涼を求めて外を散歩できたが、ここ最近はそれすらもできないほど暑い。一番気温が上がる午後はほとんど誰も外に出ず、まるでコロナ中の外出禁止のような景色。そもそも7月は夏休みでベオグラードを離れる人が多いため人口が減るのだが、今年の暑さは街からの脱出欲を加速させる。

というわけで、暑さにうなだれることがなかった夏の始まりに戻りたい。2024年5月11日土曜日、ベオグラードのゼムン区にあるドナウ川沿いのギャラリーで友人たちが自費出版で作った本のプロモーションが行われた。その様子を少し振り返ってみたいと思う。

本のタイトルは『腎臓は脂肪に被われてどう生きるか、誰が曲がったドリナを真っ直ぐにするか〜イラストで見る慣用表現〜(Kako živi bubreg u loju, a ko ispravlja krive Drine: Ilustrovani frazeologizmi)(以下『イラストで見る慣用表現』)。タイトルの直訳を読むだけでは頭に疑問符が浮かぶタイトルだろう。

本の表紙。表紙のイラストは「脂肪に被われた腎臓のように生きる」。

その「あれ?」と思う感覚が大事で、セルビア語にはこのタイトルのように、言語を知っていても意味をきちんと理解していないと使えない言い回しがたくさんある。例えばタイトルに使われている「脂肪に被われた腎臓のように生きる(ŽIVI KAO BUBREG U LOJU)は、「何不自由なく暮らしている」あるいは「お金持ち」と言う意味だ。腎臓とは力を象徴する体の臓器で、なおかつ感情を司る場所。現代は必ずしもそうとは言い切れないがかつては「お金持ち=太っている」と考えるのが一般的で、脂肪はお金や富を意味した。お金持ちの腎臓は豊かな脂肪に被われているため、「お金持ち」を指す表現となった。

この『イラストで見る慣用表現』では、このようなセルビアで日常的に使われている慣用表現がそれぞれイラストレーションと各表現の解説の文を付けて、全部で80例紹介されている。

左から順番に、司会のアレクサンドラ・バティニチ、著者のナターシャ・プリッツァ、ミリャナ・ペリシッチ、イシドーラ・ボヨヴィチ。

著者の一人ミリャナ・ペリシッチ(Mirjana Perišić)は、ベオグラード大学の言語学部でセルビア語・セルビア文学を修了し、シャバツ市の小学校で教員をしている。二人目の著者ナターシャ・プリッツァ(Nataša Prica)は、現在ジュネーヴ大学の社会言語学の博士過程に在籍する言語学者で、スイス在住のセルビア人の子どもにセルビア語を教えていた経験がある。二人とも子どもにセルビア語を教える際に、このような独特の慣用表現を理解させるのに苦労した体験をきっかけに、この本が構想が生まれた。

日本には、ことわざや四字熟語などを漫画を使って覚える…と言うような本はごまんとあるが、セルビアには手軽な子供向けの本というものが今までなかったそうだ。そこで、セルビア語の楽しい言語文化が今の子どもにも伝わるようにと、イラストレーションをつけて言葉の紹介をすることに決めた。イラストレーションを担当したのは、プリッツァの義妹で現在ロンドンの技術博物館の写真室に勤めている写真家イシドーラ・ボヨヴィチ(Isidora Bojović)だ。

プロモーションの様子。

プロモーション会場となったギャラリーにはボヨヴィチのイラストの原画が飾られ、さらに本の販売ブースも設けられ、本の他に本のイラストを使って作ったポストカードやステッカーも販売された。友人の多い彼女たちのプロモーションは大盛況で、ギャラリーにはお年寄りから小さな子どもまでギャラリーの外に溢れるほど人が集まった

プロモーションでは文学評論家が司会を務め、著者三人と本について話しただけでなく、子どもたちによる朗読もあった。

プロモーションは功を奏して初版200部は即日完売。いかにも子ども向けなものとはいえないイラストレーションと、アート本のように本棚に置いておいて時々眺めたくなるようなサイズとデザインは、一人で読んでも楽しく、誰かと一緒に読んでも楽しい。もちろんセルビア語を日々学んでいる外国人の私のような人物にとっても、学習の助けになる本だ。

せっかくなので最後に『イラストで見る慣用表現』を覗きながら、そこで紹介されている慣用表現を三つほど紹介したい

「頭を袋で運ぶ(NOSITI GLAVU U TORBI)」

この表現は、セルビアがオスマン帝国に支配されていた時代に、支配への抵抗や蜂起を企てたものは皆トルコ人によって拘束され、その場で頭部を切断されその頭は袋に入れて運ばれていたことに由来する。またセルビアだけでなく、古くは闘争が起きれば、敵の頭部を切断し、それを支配者に証拠として見せる習慣は世界各地にあった。

当時セルビアで支配に歯向かおうとする者は「いずれ頭を袋に入れられる」と言われていた。そして現在でも危険な行為、自身の生命を考えず無茶な行動をする者に対して「彼の頭は袋で運ばれる」「彼は頭を袋に突っ込んでいる」などと言う。

「頭を袋で運ぶ」

「靴底のような頬(ほお)をしている(IMATI OBRAZ KAO ĐON)」

セルビアの文化では、顔のほお人の品格誇りなど人間性そのものを表す部位だとされている。セルビアの英雄叙事詩では、英雄たちが常に「自分の家族や部族の顔のほお」を汚さないよう名誉を重んじて行動していた。つまり、ほおを汚した者は自身の品格だけでなくその家族や部族全体の品格が問われることとなる。靴底は身に付ける物で一番汚れる場所。そこから靴底のようなほおをした者とは、自分のことはおろか家族のことも考えないモラルのない人間性が汚れ切った人のことを言う。

「靴底のような頬(ほお)をしている」

「曲がったドリナ川を真っ直ぐにする(ISPRAVLJATI KRIVE DRINE)」

本のタイトルにもなっている慣用表現。現在セルビア共和国とボスニア・ヘルツェゴヴィナの国境線になっているドリナ川は直線とは程遠い入り組んだ地形の川である。「曲がったドリナ川を真っ直ぐにする」とは、(例えば社会のシステムなど)もともとが単純ではないものを正すのは不可能であるという意味である。

また、『ドリナの橋』の著者でノーベル賞作家のイヴォ・アンドリッチがこの慣用表現にこのように付け加えている。

この世のすべてのドリナは曲がっている。すべてのもの完全に正すことは不可能だ。ただし、正すのを止めてはならない。”Sve su Drine ovog svijeta krive; nikada se one neće moći sve ni potpuno ispraviti; nikada ne smijemo prestati da ih ispravljamo.” Ivo Andrić, Znakovi pored puta

「曲がったドリナ川を真っ直ぐにする」

場所情報

Umetnička Galerija Stara Kapetanija

住所:Kej oslobođenja 8, Zemun, Serbia


【文/山崎 佳夏子】美術史研究家。ベオグラード在住。岡山大学大学院在籍中に1年半ベオグラードへ留学し、セルビアの近代美術の研究をする。一時帰国を経て再度ベオグラードへ渡航し結婚。2020年に生まれた長男の育児中。主な著作に『スロヴェニアを知るための60章』(共著、明石書店、2017年)、『ボスニア・ヘルツェゴヴィナを知るための60章』(共著、明石書店、2019年)(共に美術の章の担当)。

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