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リヒャルト・ゾルゲとブランコ・ヴケリッチ/1933年から1941年にかけての日本におけるスパイ網 

ゾルゲ(左)とヴケリッチ

【文/本田スネジャーナ】

恐らくは第二次大戦のもっとも有名なスパイ、リヒャルト・ゾルゲは、ソ連のスパイだった。日本ではジャーナリストとして働いていた。ユーゴスラビア人ブランコ・ヴケリッチも所属していた自身のスパイ網の助けを借りつつ、ゾルゲは第二次大戦の趨勢に影響を与える貴重な情報を集めた。 

重要な情報の一つは、ヒトラーがソ連に侵攻するというものである。スターリンはその情報を信用しようとせず、ソ連外相モロトフとドイツ外相リッベントロップが1939年にモスクワで結んだ独ソ不可侵条約を信じようとした。そしてバルバロッサ作戦と呼ばれるドイツのソ連侵攻が不意に発動された。攻撃は1941年6月22日に始まったが、たったの五日間でドイツ軍はモスクワに向かって300キロ攻め上った。赤軍は一致団結して戦い、ドイツ軍の前進は鈍くなったが、前線の状況は悪かった。秋に至りドイツ軍はモスクワを目前にしていた。 

ゾルゲがスターリンに送った二つ目の重要な情報は、ドイツの同盟国日本がソ連を攻撃しないというものであった。今度はスターリンもすぐさま対応した。18師団、1700台の戦車、1500機以上の飛行機をシベリアから西部前線に投入したが、時はモスクワ防衛線の最も困難な数か月であった。シベリアからの部隊の到着とともに1941年12月5日赤軍の反攻が始まった。シベリアからの増援部隊に完全に意表を突かれ、ドイツ軍部隊はモスクワから100キロ以上も退却した。それはそれまで無敗を誇ったヒトラーの軍隊の初めての大敗であった。 

そのころ東京ではゾルゲのスパイグループが露見し逮捕された。尾崎秀実が10月14日に逮捕され、ゾルゲとヴケリッチは10月18日に逮捕された。この三人はナチズムとの戦いに命を捧げることになった。ゾルゲと尾崎は死刑を申し渡され、1944年に絞首刑に処せられた。一方ヴケリッチは終身刑を科せられ、1945年1月13日北海道の刑務所で極度の疲労と肺炎により死亡した。 

ブランコ・ヴケリッチとは何者なのか。彼は理想主義者であり、共産主義とよりよい未来を信じた人物であった。フランスのソルボンヌ大学法学部を卒業し、多言語の話者であった。知識人であり、規律正しく信頼に値する人物であった。目を付けられソ連のスパイ活動の任務にリクルートされるのに不足はなかった。プロの写真家として暗室での仕事やマイクロフィルムの現像のための訓練を受けていた。日本でセルビア紙「ポリティカ」の特派員の仕事を得た。一方、彼の秘密の任務は、ゾルゲグループで日独政府の政治について情報収集の仕事をすることであった。

ブランコは妻エディットと1933年の初めに来日した。彼が「ポリィティカ」のために書いた最初の記事は、地震を予見できる魚“鯰”についてであった。日本ではしょっちゅう地震が起こっていることを考慮に入れれば、珍しいテーマとは言えないのではあるが。1935年、フランスの報道機関「ハヴァス」の通信員の仕事を得たことが、外交関係や日本の政治機関の人脈への扉を彼に向かって大きく開くことになった。その頃彼は英語を研究する学生山崎淑子と知り合った。エディットとの結婚は破綻し、離婚後エディットは息子ポールを伴いオーストラリアに向かった。ゾルゲは反対したもののブランコと淑子は結婚に踏み切った。翌年1941年の3月に息子洋を授かった。家族の団らんはしかしながらそう長くは続かなかった。ブランコは早くもその年の10 月に逮捕された。彼は1944年まで東京巣鴨の刑務所に収監されていたが、日本の最北端に位置する北海道の網走刑務所に移送され、かの地の過酷な冬を乗り越えることはできなかった。 

その時期にブランコが妻や幼い息子に送った手紙が残っている。山崎淑子はそれらを『ブランコ・ヴケリッチ:監獄からの手紙』に編集している。その本は1966年日本で初めて出版された。ブランコが「ポリティカ」のために書いた記事は56あるが、息子の洋がそれらの記事を『ブランコ・ヴケリッチ:日本からの手紙―ポリティカ紙掲載記事』の中で発表している。その本の日本語版は2007年に発行された。 

ブランコの息子洋氏はセルビアで生活し働いておられる。ノーベル賞作家イボ・アンドリッチやヴーク・カラジッチの作品、ペタル・ペトロヴィッチ・ニェゴシュの『山の花環』、また自主管理の理論家エドヴァルド・カルデリの著作も同様に、日本語に翻訳なさっておられる。日本語―セルビア語/セルビア語―日本語の辞書の編纂者でいらっしゃる。多数の日本語の作品をまた同様にセルビア語にも翻訳されていらっしゃる。

翻訳/本田昌弘

<了> ※次ページはセルビア語


【文/本田スネジャーナ】セルビアの首都ベオグラード生まれ。ベオグラード大学にて電子工学を学んだのち、89年に結婚を機に福岡に来日。フリーランスの英会話講師として勤務しつつ、セルビアの文化を講演会や料理教室を通して積極的に発信している。また、ボランティアとして日本語教室でも講師を務めている。セルビアの雑誌「Novi magazin」にて日本の紹介記事を執筆中。三児の母。

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