【文/小柳津 千早】
昨年の夏、近所の青空市場で桃を販売する農家と知り合いました。ミチャさんとヤゴダさん夫婦です。二人が作る桃は甘みが強く、とてもジューシーで、我が家は一瞬でファンになりました。
桃が出回るのは6月中旬から約2ヵ月間。今年もミチャさんたちの桃を食べられる幸せの季節がやってきました。市場が開くのは水曜日と土曜日。家族全員が休みの土曜日は市場に行くことにしています。朝起きると子どもたちは「ミチャおじさんの桃を買いに行こう」と急かします。
先日もいつものように桃を買いに行くと、ミチャさんから突然「私たちの畑を見にくるかい?」と誘われました。私が住むインジヤという街周辺はセルビアの中でも農業が盛んな地域で、桃以外にも、小麦、とうもろこし、ひまわり、りんご、ワイン用のぶどうを育てる畑が広がっています。ただ、農家の方がどのように生産しているのか実際に目にする機会はありませんでした。思いも寄らない誘いに私は「ぜひ見たいです!」と即答。「それならさっそく明日にでも」とミチャさんは満面の笑みを見せてくれました。
翌日、車を10分ほど走らせミチャさんとヤゴダさんが住む家に到着。コーヒーをいただいた後、自宅の裏庭を案内してくれました。トマトやズッキーニなどを育てる家庭菜園、鶏小屋、農機具を保管する納屋、トラクターと大量の収穫コンテナが置かれた巨大なビニールハウス。その規模に圧倒されます。ミチャさんは「これはほんの一部。向こうに林が見えるでしょ。あそこまでうちの土地だよ」と気にも留めません。どうやらこの辺りの農家では普通のことのようです。
しばらくあっけにとられていたのですが、どこを見渡してもお目当ての桃畑がありません。するとヤゴダさんが「ここから車で5分の場所にあるのよ。ここよりももっと広いんだから」と教えてくれました。興奮を抑えきれず、さっそく向かいます。
桃畑はドナウ川西岸のゆるやかな傾斜地にありました。桃の木が何列も並び、はるか先まで続いています。いつも食べている桃はまさにこの場所で作られていることを知り、感慨深くなります。
ミチャさんが説明します。
「畑は約1ヘクタールで、端から端まで400メートルある。桃の主力品種はレッドヘブン、カーディナル。桃以外にもネクタリンも育てている。収穫は朝6時から昼過ぎまで。市場には前日収穫したものを持って行き、その日のうちに完売するんだ」
気になる販売価格ですが、大玉サイズで1個あたり約40円(ただし基本的に量り売り)。日本のスーパーの桃は1パック2個入りで約400〜500円なので1個約200円。その差は歴然です。物価の違いは当然考慮すべきですが、セルビアはそもそも果物全体の値段が安く、桃も決して高級なものではありません。日本の桃が高いことをミチャさんに伝えると「日本人がセルビアに来たら天国のように感じるだろうね」と笑いました。
「セルビアは農業国だし、どの家にも、りんご、さくらんぼ、スモモなどの木がある。果物を食べることは何も特別ではないよ」
日本人からすればただ羨ましいばかりですが、農家の苦労に関しては世界共通のようで、天候だけはどうしようもないと話します。
「霜、雹(ひょう)が一番厄介。これだけは私たちの力が及ばない。畑の上に網を張り巡らして対策を取ることはできるけど、お金もかかるし、100%防げるものでもないしね。収穫に関しては基本的に私たち二人で全部やっている。時々息子家族が手伝ってくれるけどね」
ひと通り説明が終わり、いよいよ収穫のお手伝いです。桃を選ぶポイントは、鮮やかな赤色で、つやが良く、大きいこと。子どもたちは我慢できず、さっそくかぶりつきます。口から果汁がこぼれます。
収穫後、ミチャさんから「今日取った桃は全部持って帰っていいよ。私たちからのプレゼントだ」とまさかのサプライズ。買い取ると言っても聞き入れてくれません。
「私たちが育てた桃を気に入ってくれてうれしい。それだけで十分なんだ」
桃畑を去った後、ミチャさんたちは私たちをドナウ川沿いのレストランに連れて行ってくれました。そこで二人はベオグラードに住む息子家族のこと、若かりし頃の思い出、私たちは日本の文化やセルビア移住の話などをして、楽しい時間を過ごしました。
※この日の動画をYouTubeチャンネル「セルビア暮らしのオヤ」で公開しています。視聴はこちら!
後日談として、桃畑を訪れた日から1週間後、セルビア各地で風速30メートルを超える嵐が発生して、農業に甚大な被害をもたらしました。ミチャさんたちの桃のことが心配になり、市場に会いに行くと「桃は全部落ちてしまったよ。残念だけど今年の収穫はもう終わりだね」と落胆した様子でした。
「農家の宿命だよ。不幸中の幸いは収穫全盛期が終わっていること。もちろん、大きな損失なのは間違いないけど、前に進むしかないね。私たちは桃以外にもりんごを育てているんだ。りんごは無事だったから、秋になれば収穫できる。その時にまた畑においで」
私たちは最後に残ったという桃を1キロ分買って、市場を後にしました。
【文/小柳津 千早】大学卒業後、セルビア語を学ぶためベオグラードに留学。そこで日本語学科に通う学生と出会い、無職の身でプロポーズをして見事成功。現地で約350人の前で結婚式を挙げる。帰国後、スポーツメディア関連会社に3年半、在日セルビア共和国大使館のスタッフとして10年間勤務。2021年10月中旬からセルビアに移住。YouTubeチャンネル「セルビア暮らしのオヤ」で現地の自然、文化を配信中。