【文/山崎 佳夏子】
科学の発展にともない現代生活ではものが安価に容易く手に入るようになった反面、生活に味気なさや虚しさを感じることがある。例えば、ゴミ箱や買い物袋などそんなちょっとしたものを見ても今はプラスティック性のものが主流だが、かつては籐で編まれた籠を普通に日常的に使っていたのだ。シンプルなプラスティックの箱は機能性はあるが、日常風景を輝かせるようなインテリアになるのは難しい。優秀なデザイナーたちが新素材を使って考えたデザインが、自然から生まれた植物を使って人の手で丁寧に作られた伝統的な手工芸に勝つには相当な努力が必要となるだろう。
昨今、大量消費文化に飽きてしまった人たちや、環境問題へ配慮のために天然素材を使った製品への関心がかなり高まっている。そしてアート業界でも、それと対応するようにテキスタイルや糸などの繊維を使った美術作品が注目されている。
例えば日本のアーティストでは、世界的に有名な塩田千春の代表的な作品は毛糸を使ったインスタレーションだ。自身の身体を通して衣服と人との関係を探り現代美術の場で作品を発表する津野青嵐も国内外から注目されている。
衣服や絨毯などを紡ぐ糸は、制作にあたるのが伝統的に女性であるために女性性を表すオブジェクトとして見なされている。女性アーティストの活躍が目覚ましい現在、テキスタイル・アートを目にする機会は増えて来ているが、この傾向が21世紀以降の新しいものではなく、20世紀後半にすでに見られていたことを証明する一人がクロアチア出身の女性アーティストのヤゴダ・ブイチ(Jagoda Buić, 1930-2022)だ。今回のアート通信では、ユーゴスラヴィア時代にタペストリーアートの旗手として国内外で高い評価を得た彼女の作品からベオグラードの美術館が所有する巨大なタペストリー作品を中心に集めた展覧会を紹介する(会期2023年11月23日〜2024年2月26日)。
ブイチはクロアチアのスプリット生まれで、ザグレブの応用美術アカデミーに入学後、ローマとヴェネツィアでコスチュームデザインとセノグラフィ(舞台美術)を勉強し、1954年にウィーンの応用美術アカデミーで空間デザイン(インテリア建築)学科とテキスタイル学科で学位を取得した。ユーゴスラヴィアに戻りオシエク、ザグレブなどの劇場の舞台美術と衣装を担当し、舞台美術と衣装の分野での活躍は劇場だけでなく映画やドラマのにも及んだ。
舞台の仕事を主に手がけていたブイチは、1960年代に入ってからタペストリー作品を制作しはじめる。1965年には立体的なタペストリーとして初めて作った作品が近現代美術のコレクションで有名なアムステルダム市立美術館に購入され、国外からも注目されるようになる。ヴェネツィア国際美術ビエンナーレ、サンパウロ・ビエンナーレ、ローザンヌ国際タペストリー・ビエンナーレにユーゴスラヴィア代表として出展しその名を国際舞台に轟かせた。
今回の展覧会はベオグラード現代美術館の5階と6階の展示室での開催であった。展示室に入ってすぐは空間が薄暗く感じられるのだが、徐々に目が慣れてくると編まれた糸の凹凸感や毛羽だった表面が見えてくる。作品は全て不思議な形をしているが、素材はすべてウールやコットン、リネン、ザイザルなど自然から生まれたものを人が編んで作られたものなのだ。作品の形状そして繊維の細やかな質感から自然の生命力が放たれているように感じられる。60年代、70年代のアヴァンギャルド美術にナチュラリズムを豪快に持ち込んだブイチには感心する。
ブイチはタペストリーの表現を追求したその先、《マクベスの心臓》のような紙を使ったコラージュの作品も制作した。タペストリー作品を制作してきた彼女の手によると紙もまた自然から生まれたものなのだということに改めて気付かさされる。ただ紙はテキスタイルよりも扱いやすい。素材の重さも違う。やはり糸を編み、巨大な空間を支配する表現力と技術を持つブイチの芸術家としての力は相当なものだ。
さて冒頭で、近年テキスタイル・アートを目にする機会が増えていると述べたがこれは注目すべき現象の一つであろう。環境問題の点、そしてテキスタイルは女性が伝統的に担ってきた分野としてジェンダーと関わりがある点もそうだが、もう一点指摘したい点がある。それは、西ヨーロッパに比べて情報が少ない旧東ヨーロッパやスラヴ世界において、テキスタイルを使った美術(ファイバー・アートとも)は西側とは異なる歴史を持っていることだ。1975年に始まったポーランドのウッチの国際タペストリー・トリエンナーレは世界で最も古い歴史を持つテキスタイル・アートの芸術祭として知られている。ポーランド人女性アーティストのマグダレナ・アヴァカノヴィチ(Magdalena Abakanowicz, 1930-2017)もブイチと同じ時代に活躍し、国際的に高い評価を得た。
この二人のスラヴ系の女性は、工芸の分野にあったタペストリーを現代美術のフィールドへと押し上げることへ多大なる貢献をした。彼女たちのタペストリーの選択は「自然や生のままの素材の使用はスラヴ人たちの伝統に基づいたスラヴ人の特徴的なセンシビリティを表している(本展覧会冊子より引用)」との指摘もあり、その大活躍は当時の現代美術界における「スラヴの波」であったとの評価がなされている。ユーゴスラヴィア時代はブイチ以外にもタペストリー・アートを制作するアーティストが数多くおり、タペストリーは一つの美術ジャンルとしてこの地域に定着した。
また、もしあなたが雑貨が好きならラトビアなどのバルト三国の手編みの靴下が最近人気であることを知っているかもしれない。セルビアでもウールの靴下やセーター、チリム絨毯は民芸品の代表格だ。タペストリーなどの繊維を使った美術や文化は旧東ヨーロッパやスラヴ世界の文化の際立った特徴の一つであり、今まで情報の少なかったこれらの地域の美術や伝統文化に現在関心が寄せられはじめていることとテキスタイル・アートの流行は関連している現象だと言える。
ブイチの巨大な立体のタペストリー作品は、作品の資質上常設は難しく頻繁に見ることはできない。しかし展示されれば、制作から時がたった今でも爆発的な力を持っている。まるで眠る巨人のようだ。その爆発的な力は自然の持つエネルギーなのかもしれないし、アートの力なのかもしれない。それに技術を繋いできた伝統の重みなのかもしれない。繊維と人との関係、そして自然と人との関係など、失われ始めているものを改めて考え直すことをブイチの作品は教えてくれる。
場所情報
Muzej Savremene Umetnosti Beograd(Museum of Contemporary Art, Belgrade)
場所:Ušće 10, Blok 15, Belgrade, Serbia
【文/山崎 佳夏子】美術史研究家。ベオグラード在住。岡山大学大学院在籍中に1年半ベオグラードへ留学し、セルビアの近代美術の研究をする。一時帰国を経て再度ベオグラードへ渡航し結婚。2020年に生まれた長男の育児中。主な著作に『スロヴェニアを知るための60章』(共著、明石書店、2017年)、『ボスニア・ヘルツェゴヴィナを知るための60章』(共著、明石書店、2019年)(共に美術の章の担当)。