My Serbia(マイセルビア)

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セルビアとのパフォーマンス・アート交流

【文/霜田 誠二】

私がセルビアのアーティストと最初に会ったのは1991年9月。ポーランドのバルト海沿岸のグダンスク隣の小さな町ソポトで開催された国際パフォーマンス・アート・フェスティバル「リアルタイム、ストーリーテリング」」に参加した時。私は1982年から西ヨーロッパにはほぼ毎年行っていたが、中欧に行ったのはこの時が初めてだった。

そのフェスティバルで会ったのは当時ノビサドに住んでいたソンバティ・バレント氏。そのフェスティバルは西欧と北米以外にはポーランド近隣国からの出演者が数名いて、89年の革命以降初めての大規模な国際芸術祭だった。アジアからの参加者は私だけだった。

パフォーマンス・アートはアーティスト自身が現地まで行かないと成立しないので、ディレクターのワルシャワ在住のヤン・スビジンスキー氏の目論見通り大きな反響を呼んだ。何しろ世界中からアーティストがポーランドの小さな町にやって来たのだから。ポーランド国内のいくつもの都市のアートセンター関係者も見にきて、終演後のアーティストの部屋を訪れて自分の町にも来てくれないかと交渉した。私もソポト終了後に国内の4都市を回った。フェスティバル終了翌朝に外国のアーティストがいくつかの班に分かれバンに乗り込み、各地のアートセンターで連日パフォーマンスをした。ロシア語が国際共通語として教育されていた名残で英語を話す人はほとんどいない中で、英語で談笑する各国アーティストとポーランド語しか話さないドライバーだけの旅は時には珍道中になった。

ソポトのフェスティバルは、出演者も私達西側アーティストが殆ど知らない国からの参加も多く、毎日の終演後にウォッカを飲みながらの語らいも楽しくとても刺激的な数日間だった。

そのフェスティバルでソンバティはユーゴスラビアの偉大な詩人や哲学者の写真スライドを壁に上映しながら追悼曲を流し、ウォッカで乾杯しながら次々と追悼する痛切な行為作品を発表した。

ソンバティのパフォーマンス
ソンバティのパフォーマンス

そこに参加していたアーティストが翌1992年にチェコスロバキアのノベザムキという小さな町で開催していたフェスティバル「トランス・アート・コミュニケーション」から招待状が届き私も参加した。2回目の中欧への旅だった。パフォーマンス・アートが過酷な共産党政権下で、混乱する中欧の各国で熱をもって行われていたことは大きな驚きだった。会場は町外れの映画館。ロビーの一角がカフェになっていて、一人のパフォーマンスが終わると次のパフォーマンスが始まるまで皆カフェで歓談した。その時にもソンバティも出演し、会場ロビーで歓談したことを良く覚えている。

ノベザムキは旧ハンガリー領で住民の多くがマジャール人で、ハンガリー以外に住むマジャール人を支援する基金の助成も受けていた。ソンバティもマジャール人だということも初めて聞いた。

彼は、当時内戦状態だった祖国ユーゴスラビアのことを冷やかにニヒルな笑いを浮かべながら語った。私は戦時下のアーティストと語り合ったのは初めてだったのでよく覚えている。ビールを飲んでくつろいでいても、どこか顔が緊張してこわばっている。ソ連崩壊のきっかけを作ったリトアニアからバスを乗り継いできたアーティストもいて、彼の話を聞くこともとても刺激的だった。ギャラは日本円で3千円ほど。交通費も全く出なかったが、ノベザムキに来ればフェスティバル期間中は宿泊ホテルと食事が用意されている。

芸術家に対する助成が十分ではない日本でパフォーマンス・アートというお金にもならない表現をする芸術家である私は、いつも極貧だった。ただ私の父が92年に亡くなり、残したわずかなお金を私は勝手にそれらの旅費に費やした。そうでなければそんな旅はできなかった。父は長野県の田舎教師で戦時中当時の軍国主義の国策に従い、中国東北部(旧満州)に幼い生徒を連れて行き死なせた。自分も敗戦後シベリアに3年ほど強制労働の捕虜になり、帰国後に最初の妻と1歳の息子が現地で死んだことを知る。彼の戦後は、亡くした教え子への懺悔と親たちへの謝罪と当時の嘘で固めた権力への批判と攻撃に費やされた。しかし教育者からだったためか、本人には全くわからない前衛芸術の道を進む我が子=私の最大な理解者でありスポンサーであった。

その毎年開催されたノベザムキのフェスティバルには1992年以降も何回も出演し、次々と新たなアーティストに出会いネナド・ボグダノビツ氏もやがて出演した。その間に旧ユーゴスラビアは解体と統合を進めたのだが、ポーランドやハンガリーやルーマニアには次々と行ったが、行ったことが無かったので旧ユーゴスラビア地域はピンと来なかった。

私が1993年からディレクターを務めるニパフ(日本国際パフォーマンス・アート・フェスティバル)の第4回ニパフ1997年に、ネナド・ボグダノビツ氏を招待し東京池袋の東京芸術劇場の三日間から広島三日間と長野三日間を回った。

その時の彼の作品は、「人間美術館」。自分自身の身体を美術館というスペースと捉え、観客に身体に絵や文字を書いてもらったり(東京)キスをしてもらったり(広島)パンチを受けたり(長野)した。観客の前で身体を晒し触れさせる事には大きな覚悟がいる。スロバキアでも見た作品だったが、彼の身体を張った大胆さに驚いたことを覚えている。でも考えてみればアブラモビッチの伝統もある国だ。彼女が教えていたというノビサドのドナウ河沿いの美術大学を一度訪れたことがある。NATO軍が爆撃して破壊した橋がすぐ近くにあり、仮設橋が通っていた。

1997年 ネナドのパフォーマンス

そして私が初めてセルビアのノビサドに行ったのは、2003年のニパフ中欧ツアー。日本人8名の他に中国3名と台湾2名と一緒に、スロバキア・ノベザムキとハンガリー・ブタペストとポーランド・クラコフを周り、そこからベオグラードに飛んだ。ベオグラード空港からノビサドまでは、用意された小型バンに乗り込んだ。中国と台湾のアーティストとはクラコフで別れ、日本人アーティスト8名のみ。私以外は皆ヨーロッパも初めての人たちだった。私はそれまでの3カ国は何度も行っていたが、旧ユーゴスラビアは初めて。それまでの3カ国を無事に終えて、バンの車中で無邪気に騒ぐ他の日本人達を叱った事を覚えている。目を晒してみると道路脇には瓦礫が積まれ、戦争の匂いがしてくるのだった。ベオグラード空港に着いた時からキリル文字になっていたことも私をナイーブにさせた。

この時のノビサドのパフォーマンスを手配してくれたのはノビサドからブタペストに引っ越したソンバティ・バレント氏。彼が連絡を取ってくれた黄金の眼ギャラリーが、空港からのバンでの移動や私たちのノビサドでのホテルやギャラとお土産まで用意してくれた。二日間のパフォーマンスは街中の野外で行われ、お土産にもらったプラム・リキュールのボトルは帰国後もずいぶん楽しませてもらった。ネナドも見に来てくれた。

1997年以降2020年までにニパフに計3回来てもらったネナド・ボグダノビツ氏が住む町オジェチで、毎年開催しているフェスティバル「国際マルチメディア芸術祭」に私が行ったのは2011年。旅費の助成など極めて貧しい日本では、私のような何もバックグランドがないパフォーマンス・アーティストは大抵赤字覚悟で相当知恵を絞らないとやっていけない。毎年ネナドからは招待状が届いていたが旅費も出ないので行けなかったが、2011年10月にスイス・ルーチェルン近くの大きなパフォーマンス・アート・フェスティバルの招待状が届き余裕のある旅費も提供されるので、そのフェスティバルの前にオジェチに行くことにした。

せっかくなのでベオグラード空港着にしてベオグラード駅前の安ホテルに二泊して、それからノビサド経由でオジェチに向かった。ベオグラードに宿泊するのは初めて。駅前ホテルから旧市街方向に歩く途中に近くのレストランに入ったらうまい魚のフライ定食があり、翌日ももう一度同じレストランで同じものを食った。旧市街地も、長年住んでいた東京の西荻窪のように気楽な町だった。もちろん知り合いのアーティストもいないベオグラードなので楽しそうな町だなと思っただけだったが。

ベオグラードからバスでノビサドに行き、その後オジェチまでの小一時間のバス旅行のこともよく覚えている。延々と続く農村の田舎町。最初にノビサドに向かった時とは違った平和な田園風景。一人旅だったが楽しいバス旅行だった。

オジェチの町に着きネナドに連絡したら、彼が自転車に乗ってバス停まで来てくれホテルまで連れて行ってくれた。メインの商店街のある道は50メートルほどだけの小さな町だった。フェスティバル会場も彼の自宅脇のギャラリーが主会場。出演アーティストも国内がほとんどで、あとは隣国のハンガリー2名と旅費助成が取れたイギリス1名。そして私。とても小さなフェスティバルだが、ネナドはいつも真剣に取り組みこの小さな町の小さなフェスティバルを大事にしている。私は庭で指先だけを使うパフォーマンスをしたが、パフォーマンス中もあの田舎道や田園風景を思い出しとても穏やかな気分だったことを覚えている。翌日ブタペストからルーマニアのトランシルバニアに向かう列車の途中駅まで行き、トランシルバニアの知り合いのアーティスト達のアートキャンプ参加のために移動した。何しろこの中欧あたりの国々にはとてもお世話になった。物が溢れている日本では決して出会うことのなかった大事なものを昔見せてくれたところだから。再び訪問できる日を夢見ている。

2020年 ネナド3回目ニパフ
2020年 ニパフ信州セミナー
霜田自宅前にて

注:1990年から毎年2時間の自主制作ビデオ「霜田誠二アーティスト・レポート」を作って販売していた。現在はDVDで販売中、各2000円。第1弾1990はカナダの芸術支援の取材とケベックのパフォーマンス・アート・フェスティバル。第2弾1991はニューヨークの湾岸戦争反戦運動とエイズ危機に対する動き。第3弾1991は香港〜ギリシャ〜ポーランド。ソポトのフェスティバル。第4弾は台湾、スロバキアのパフォーマンスフェスティバル。等など。E-mail: seijishimodajp@yahoo.co.jp


【文/霜田 誠二】1953年長野市生まれ。1975年パフォーマンス開始。1979年詩集「店」。1982年パリ3ヶ月滞在。1986年から毎年3ヶ月西ヨーロッパ公演。その後アジア中南米。1993年ニパフ開始。1996年ニパフ・アジア開始。2000年ニューヨーク・ベッシー賞。コロナが始まる前までにニパフ25回、ニパフ・アジア20回開催。計45回のニパフで、50数ヵ国約400名余の海外芸術家を招待した。武蔵野美術大学造形学部非常勤講師(2020年まで20年間)、慶應義塾大学文学部非常勤講師(2020年まで5年間)

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