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セルビア修道院めぐり(6) アリリェの聖アヒリオス聖堂(Crkva svetog Ahilija u Arilju)

【文/嶋田 紗千

聖アヒリオス聖堂は、セルビアの南西部のズラティボル地区にあるラズベリーの産地アリリェにあります。この聖堂はジュルジェヴィ・ストゥポヴィ修道院の礼拝堂を建立したドラグティン王の寄付で建てられました。

留学期間が終わる前(2005年夏)にどうしてもドラグティン王の寄進者像が見たくて、訪れる方法を探している時に修道院ツアーを偶然見つけました。申し込み先がなんとベオグラードの総主教座の売店でした。アリリェの他、オヴチャル・カブラル修道院群(Ovčarsko-kablarski manastiri)、ズラティボル山をめぐりました。

再訪は2019年に美術史家タマラ・オグニェヴィチさんと一緒にフレスコ画調査を行った際です。その時、この聖堂がもともと修道院であったことを教えてもらい、その痕跡を調査しました。今回はかつて修道院であった聖アヒリオス聖堂をご紹介します。

聖堂外観(南側から)

アリリェの聖アヒリオス聖堂は町の高台にあります。主教座(のちに府主教座)となったため、町の中心が同じ高台の南側に広がっていますが、その他の方向は緩やかな斜面となっています。坂の下から聖堂を見上げると、アテネのパルテノン神殿のように神々しい威厳を放っています。

セルビアの多くの修道院(12世紀末以降)は山奥の泉の近くか、川沿いにあります。世俗を捨てて山の中で隠遁者が暮らし、その後、集団生活の場として修道院ができたことと関係しています。しかし、8世紀頃に造られたノヴィ・パザルのペトロヴァ・ツルクヴァ(Petrova crkva/聖ペテロとパウロ聖堂、かつては修道院)や、ステファン・ネマニャが12世紀に建立したクルシュムリヤの聖ニコラオス修道院(Manastir Svetog Nikole u Kuršumlija)やジュルジェヴィ・ストゥポヴィ修道院は小高い丘に位置しています。

修道院が見晴らしのよい場所にあるのは中世セルビアの発想ではなく、キリスト教以前の土着信仰の場を使用したように感じられます。調べてみると、アリリェは史実としてはっきりした証拠は残されていませんが、高台に神殿がある古代ギリシアのアクロポリスのような町であったのではないかといわれているようです。

聖堂外観(北側から)

12世紀末からセルビアで聖遺物信仰がはじまり、その頃ラリサ(ギリシアの都市)の聖人の不朽体と聖人崇敬がこの地にも到来しました。近くにある川の名前からかつて「モラヴィツァ」と呼ばれた町は聖アヒリオスの聖遺物がもたらされたことで、「アリリェ」と呼ばれるようになりました。

カッパドキア出身のラリサ主教アヒリオスは325年の第一回ニカイア公会議でアリウス派を論駁し、奇跡を起こしたことで死後ラリサの聖人となりました。10世紀末にブルガリア皇帝がその地域を支配した際にプレスパ湖(北マケドニアとギリシアの間にある湖)の島へ聖遺物を奉遷し、その後オフリド、セルビアのジチャを渡り、アリリェにもたらされたといわれます。またはラリサの移民が聖遺物を持ってアリリェに来たという説もあります。

当時、聖遺物は聖堂を建立するにあたり重要なものでした。聖サヴァは聖遺物を得るためにイスラエルからコンスタンティノープルを奔走したといわれています。しかし十分な聖遺物を得ることができず、結局、セルビアが選んだ道は亡くなった自国の王や大主教を聖人にするというものでした。そのため、アリリェはセルビアでは珍しい実在した異国の聖人を奉っているのです。

聖アヒリオス像

1219年に大主教サヴァ(のちの聖サヴァ)は北部の国境近くのアリリェをモラヴィツァ教区の拠点に据え、外敵からの侵入を信仰で防ごうとしました。当時12カ所の主教座を定め、この修道院もその一つに数えられています。

その後、隣接するハンガリーの了承を得てドラグティン王がスレム王国を創設し、1296年頃アリリェに新しい聖堂を再建しました。14世紀中頃には、領土を最も広げたドゥシャン帝が主教座を府主教座に昇格しました。その後、府主教と修道士たちはオスマン帝国からの脅威を約300年間耐えしのぎます。しかし、17世紀後半、遂に耐えきれなくなりこの地を去りました(セルビア人大移動)。再び、セルビア人が戻ってきたのは1880年代以降のことです。修道院としてではなく、町の聖堂としてのみ復興されました。

聖堂内観

聖堂建築は外観がロマネスク様式で内部構造がビザンティン様式のラシュカ様式です。横幅が狭く、ドームの位置が高い、細長い形状が印象的な建築物です。内部はテサロニキ出身のギリシア人画家によってフレスコ画が描かれたといわれます。今でも多くのフレスコ画が残されています。

12世紀以降、ビザンティン帝国は弱体化し、画家や技術者が近郊の国へ出稼ぎに赴くようになりました。その一環で13世紀末にセルビアを訪れたギリシア人画家の集団がペトロヴァ・ツルクヴァやドラグティン王礼拝堂、そしてこの聖堂のフレスコ画を描いたと考えられています。

ドームの下のブラインドアーチ(開口部のないアーチ)には新約聖書の物語、ナルテックルには旧約聖書の物語(アブラハムの犠牲とエッサイの樹)が描かれ、その他多くの聖人たちで彩られています。注目すべきは、イコノスタシスの右側の「翼を持った洗礼者ヨハネ」、ナオス南壁の「聖母子像」と「キリスト像」、ナルテックスの東壁の「大天使ミカエル像」と「聖アヒリオス像」です。

大天使ミカエル像

イコノスタシスの左上に描かれた「受胎告知」の大天使ガブリエルは地元の人々に青い天使と呼ばれて愛されています。青い衣を着た天使が今にも舞い降りてきそうだと19世紀半ばの詩人ブランコ・ミリコヴィチが感じ、詩をしたためたことで青い天使と呼ばれるようになりました。その話をタマラさんから聞いた後、天使を見上げると、その気持ちが少し分かるような気がしました。

そして、よく見てきていただきたいのは、ナルテックスに描かれたドラグティン王の献呈図です。セルビアの寄進者像の変革期を表すこの献呈図は、正面観のドラグティン王が弟のミルティン王と妻カテリナ王妃を伴って理想的な王として表されています。ビザンティン皇帝の服装を身に着け、皇帝を象徴する赤いクッションの上に立って、この聖堂の模型を堂々と手にしています。天にいるキリストは彼らに祝福を与えています。

セルビア絵画の黄金期といわれるこの時代の人物像はボリューム感のある肉体に力強い精神性が表され、そして構図は以前よりも複雑で、色彩豊かです。

ぜひ一度訪れてみてください。

ドラグティン王とミルティン王の献呈図

【文/嶋田 紗千(Sachi Shimada)】美術史家。岡山大学大学院在学中にベオグラード大学哲学部美術史学科へ3年間留学。帰国後、群馬県立近代美術館、世田谷美術館などで学芸員を務め、現在、実践女子大学非常勤講師、セルビア科学芸術アカデミー外国人共同研究員。専門は東欧美術史、特にセルビア中世美術史。『中欧・東欧文化事典』丸善出版に執筆。セルビアの文化遺産の保護活動(壁画の保存修復プロジェクト)に従事する。

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