【文/山崎 佳夏子】
ベオグラードの目抜き通りとして知られるクネズ・ミハイロヴァ通りにあるクチャ・レガータ・ギャラリー(Galerija Kuća Legata, 英:Heritage House Gallery)にて、2024年12月3日より彫刻家のヨヴァナ・トゥーツォヴィッチ(Jovana Tucović)、テイカ・ぺズディルツ(Tejka Pezdirc)そして、我らがMy Serbiaの主宰の一人ある写真家の古賀亜希子による三人展「トランスフォーメーション・フィールド」が始まり、15日に最終日を迎えた。
この展覧会に向けて筆者はカタログのテキストを書かせていただき、またMy Serbiaもう一人の主宰の小柳津氏もセルビアにいるトゥーツォヴィッチと日本の古賀の間のやり取りを円滑に進めるための通訳としてサポートしていた。なのでMy Serbiaにとっても記念すべき展覧会となった。
展覧会の立案者は若き彫刻家のヨヴァナ・トゥーツォヴィッチで、彼女は日本とセルビアの文化交流をずっと続けてきた今は亡き画家ミラン・トゥーツォヴィッチ氏を父に持ち、セルビアを中心に活躍している。彼女がクロアチアのイストラ半島で毎年夏に開かれる美術コロニーでスロヴェニア人の彫刻家テイカ・ぺズディルツと知り合い、お互い表現方法は違うが彫刻に対する姿勢に共通のものを感じ、そこに二人の彫刻作品に古賀の写真作品を加えることで、より一層それぞれの作品にある「共通の何か」を共鳴させられると考え、本展覧会の企画を考えた。
会場であるクチャ・レガータ・ギャラリーは、19世紀後半に建てられた建物の二階にある。展示スペースが五部屋あり、企画展示にとってはベオグラードではなかなか大きなスペースだ。そのうち四部屋はドアなしで通り抜けることができるようになっている。本展では、トゥーツォヴィッチとぺズディルツがそれぞれ一部屋ずつ自身の作品のみを展示する場所として使い、他の二部屋を三人の作家の作品を一緒に展示する場所とした。そして、外光の入る入り口すぐの廊下部分に古賀の写真作品を並べ、完全に他の部屋とは独立している五つ目の部屋は、三人の作家のヴィデオ作品が順次流れる場所とした。
ヨヴァナ・トゥーツォヴィッチはベオグラード美術大学彫刻学科の修士号を取得した後ミラノのブエラ美術アカデミーで学んだセルビア出身の彫刻家である。彼女の彫刻は女性のトルソや子どもの像などの古典的な人体像でり、使う素材もブロンズや鉄など西洋彫刻史において伝統的なものである。西洋彫刻の歴史を持たない日本人の目から見ると彼女の作品はとてもヨーロッパ的で、もしかしたら現代の作品ではなく20世紀以前の作品かと思ってしまうかもしれない。
しかし、トゥーツォヴィッチはセルビアという歴史的、文化的にも確実にヨーロッパの一部でありながらも、時に「他者/敵」にもなり得る「ヨーロッパ」の伝統に「内なる存在、記憶、神話」を彼女の手で刻んでいく。
本展に出展されていた《君と私》は象徴的で、塑像のエポキシ樹脂と溶接した鉄の子どもの像が抱き合わされている。鉄は先に述べたように伝統的な彫刻の素材である。エポキシ樹脂は科学の発展により生まれた人工的な物質である。その二つの異質な物質は決して混ざり合うことはないが、抱き合うというアクションによってここに一体化する。
この作品に見られる対立構造は「伝統/革新」という点だけではない。鉄は人間の血液や地上の土の中にあるありふれたものである。しかしエポキシ樹脂は科学的なものである。一方で、鉄は化学的に見て無機物であり、樹脂は有機物である。鉄は冷たく、樹脂は温かな色をしている。この「陽と影」のような関係性は東洋的とも言え、一つの物であっても、その関係性は視点を変えれば絶えず交代しているということをこの作品は象徴的に表している。
リュブリャナの美術アカデミーで彫刻を学んだペズディルツは、トゥーツォヴィッチと異なった方法でしかし同じように伝統と現代の関係にアプローチしている。カトリックの国スロヴェニアに生まれたペズディルツにとって、大理石は古くから教会の建築や彫刻に使われていた伝統的な素材であった。しかし、彼女は大理石を使い、神ではなく人間の身体へとアプローチする。彼女の人体への探求方法は、医者のような解剖学的なものではなく、自身の身体を、触覚を使って間接的にその肌触りや動きを見つけ出し、それを抽象的な彫刻として表現することである。
抽象的な彫刻は、見る者をダイレクトに反応させる。それは聞こえると全身が反応する音楽のようである。美術が視覚的情報だという概念を打ち消したのは、画家カンディンスキーであった。しかしカンディンスキーの線やビビッドで化学的な絵の具で構成される絵画が楽譜的つまり記号的であることに対し、ペズディルツの彫刻は人が作った音楽なのか、自然の音なのかその境界線はあいまいだ。連作《あざ》は、彫刻を研磨する過程で大理石に色素を差し、それを海の水で洗い、色の出方を見る。彼女の作品はハプニングの産物でもあるのだ。
また、ペズディルツの《Tower of Tears》では、日本の「金継ぎ」の技術が使われていることも興味深い。金継ぎはリサイクルの観点からも近年日本国外において注目を浴びている。日本では古い文化とされていたものが、ヨーロッパでは今までなかったもの、つまり近代的で新しいものとして現代美術の場でも使われているのだ。
彫刻は、物質(モノ)であることと美術品(精神性)であることの境界線があいまいであり、絵画や音楽に比べ鑑賞の仕方が一つでないために、多くの人にとって鑑賞の仕方がわからない退屈なものとされた。しかし、本展覧会では古賀亜希子が自身の作品において、人間を直接写さず、人間の気配を捉えていたため、その「空気」が他の作品にリンクし、鑑賞者が思考や身体を無理に使うことなく彫刻作品の持つ精神性を、感じ取れる空間が作り出せていた。
古賀の対象を捕える目線はとても日本的である。神社の文化が象徴するように、日本文化では枠を作ってその中に何も置かず、そこにその存在を見る。今回展示された古賀の作品シリーズ《第一話》は、すべて2019年に取り壊される直前の旧セルビア大使館(1964年東京オリンピックの年にユーゴスラヴィア大使館として竣工)で撮影されたものだ。大使館の建物は役目を終えてもう中は空っぽであるが、古賀はファインダーを覗き、この場所で働いた人、訪れた人、起きた出来事に思いを馳せた。何もないところに精神的なものを見るのは日本人にとっては当たり前のことであり、古賀はごく自然にその精神的なものを写真の中に表している。
写真と彫刻の関係は美術史や美学の分野で近年注目されているテーマである。しかしそれらは写真に撮られる彫刻についてのみ話されていることに対し、本展覧会「トランスフォーメーション・フィールド」では、彫刻・建築はおろか具体的な被写体のない写真作品と彫刻作品をインタレーションすることで、写真と彫刻のまた新しい関係性を発見した。
面白いのは、これらがキュレーターや美術史家など戦略的な人々がアーティストを選択した展覧会でないことである。先にも述べたが、古賀とトゥーツォヴィッチは父ミランとの縁で繋がり、ペズディルツとトゥーツォヴィッチはコロニーで同じ時間を共にした仲で、トゥーツォヴィッチの個人的な人間関係から作家が選ばれた。
また、三人とも別の場所で生まれ、表現方法も異なるが、共通しているのは女性として生まれたことであり、その身体を通して人間や世界を見つめていることも重要な共通点であった。展覧会の訪れた人の多くの人が語ったように、会場には「女性的」な雰囲気が漂っていた。
展覧会のカタログに寄せた拙稿「触覚は共鳴する」は、伊藤亜紗氏の著書『手の倫理』に展開される触覚についての話を本展覧会のコンセプト、そしてさらにはフェミニズムにも結びつけた。
『手の倫理』では、西洋哲学では触覚が視覚や聴覚に比べて下等な感覚とされてきたが、彫刻は「触覚的な芸術」であり、彫刻家は人間の内部に流れる「自然のことば」を聞く芸術家であると主張していたドイツの19世紀の哲学者ヘルダーの論を引用し、触覚の重要性や可能性について説明している。
その話からヒントを得、筆者は文化的に元々日常生活の中で触覚を司ってきたのは主に女性であったのではないかということを本展覧会のカタログのテキストの中で述べた。
西洋世界で触覚に注意を払われなかった時代は、女性にも注意が払われなかった時代でもある。その時代「非論理的」で「自然」とされた女性は、手を使い日々の生活を営んだ。ヘルダーの論で言えば、女性は元来彫刻家なのである。
また、工芸(手しごと)は純粋な美術ではないとされ、日本を含む非西洋の芸術文化は西洋的な論理の中で芸術であるかどうか無理やりカテゴライズされた。
本展覧会「トランスフォーメーション・フィールド」では、西洋/東洋、女性/男性、視覚/触覚、文化/自然などの、常態化してしまった西洋的な論理と差別構造を三人の芸術家の作品同士の共鳴によって溶かした。そこには人間的なふれあいが根本的にある。イデオロギー優位ではない、このような人間的なふれあいのある交流が、ますます病的になっていく世界の中で最も大事なことなのではないだろうか。
場所情報
Kuća Legata
住所:Knez Mihailova 46, Beograd Serbia
【文/山崎 佳夏子】美術史研究家。ベオグラード在住。岡山大学大学院在籍中に1年半ベオグラードへ留学し、セルビアの近代美術の研究をする。一時帰国を経て再度ベオグラードへ渡航し結婚。2020年に生まれた長男の育児中。主な著作に『スロヴェニアを知るための60章』(共著、明石書店、2017年)、『ボスニア・ヘルツェゴヴィナを知るための60章』(共著、明石書店、2019年)(共に美術の章の担当)。