My Serbia(マイセルビア)

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人間と芸術

【文/山崎 佳夏子

2025年5月3日・4日、ゴールデンウィークの真っ最中の鳥取県倉吉市で「倉吉とセルビアーロシア・アヴァンギャルドが結ぶ精神の輪」と題された展覧会が開催された。本展は、2020年に鳥取県立博物館で開催された鳥取のアートコレクター N氏の保有する「Aコレクション」を紹介する企画展「ミュージアムとの創造的対話 03 ー何が価値を創造するのか?ー」を継承したもので、N氏が2016年ごろから関心を持ち、購入を始めたセルビアのアーティストの作品と、それに順じて収集されたセルビア関係の書籍に焦点を定め、「Aコレクション」の核となっている日本現代美術のアーティストやロシア・アヴァンギャルドとの関連性を紐解くという展覧会であった。

セルビアの現代美術と聞いてもイメージがしづらいであろう。しかし、セルビアはユーゴスラヴィア時代から著名な国際美術展覧会に参加しており、日本と変わらないくらい長く豊かな近代美術の歴史を持っている。1973年に東京の国立近代美術館で開催された「現代ユーゴスラヴィア美術展」は「日本で初めて東欧圏の国の美術作品を総合的に紹介した展覧会」として記録されており1、両国の美術の交流の歴史はさほど短くはない。だがユーゴスラヴィアという国が解体したことで、この地域の豊かな美術文化のイメージはほとんど忘れさられてしまった。

本展は、忘れられていた日本とセルビアの現代美術を通した二国間の繋がりだけでなく、近代美術のそもそもの起源と現代社会を眼差す力、さらに地理的にも文化的にも遠く異なる国であっても共通の力があることを「Aコレクション」という個人の美術コレクションを通して見直す、小規模でありながらも意欲的な内容となっていた。

本展の副題は「ロシア・アヴァンギャルドが繋ぐ精神の輪」とある。日本のアーティストである村岡三郎、原口典之はロシア・アヴァンギャルド運動に強い影響を受けたアーティストで、会場には「最後の絵画」と呼ばれたアレクサンダル・ロトチェンコの三部作「なめらかな色」(1921年)と同じ三原色が塗装された3台の乗用車が外に見える窓「ロトチェンコの窓」があり、Aコレクションの核にはロシア・アヴァンギャルドの精神があるという。

セルビアの近代美術の起源とロシア・アヴァンギャルド運動は関係がある。その交わりが起きたのは世紀末のミュンヘンだった。当時のミュンヘンはドイツ随一の芸術都市で、パリに習い保守的なアカデミズムに反発するミュンヘン分離派などをはじめとする運動も起こっていた。そのミュンヘンにスロヴェニア人のアントン・アジュベという画家がいた。ミュンヘン芸術アカデミーを卒業したアジュベはミュンヘンで絵画の私塾を営んでおり、その私塾はアカデミー受験の予備校的な場所であったが、アジュベの指導は保守的な技術や考えにとらわれない先進的な美術に対する考えが含まれていた。後に彼の偉業は美術史において高く評価される。

この時代のミュンヘンは、自由でコスモポリタン的な街だった。しかしそれは単にデカダンス的で享楽的なものではなかった。19世紀から高まってきたナショナリズム運動はピークを迎え、第一次世界大戦そして共産主義革命の足音が聞こえる中、芸術家を目指して全世界からミュンヘンへ来た異国人たちは、母国の政治的状況だけでなくヨーロッパや世界全体の状況を常に案じていた。ちなみにアジュベが画塾を開いた年の数年前にはなるが、日本からは画家の原田直次郎、作家の森鴎外などがこの時代にミュンヘンへ留学していた。母国を離れ、異国の都市で同郷の仲間とこれからの世界や母国の将来について話すことも文化都市ミュンヘンの自由の享受の一つであった。

アジュベの私塾に集まる画家の多くはスラヴ系の民族で、その中には青騎士を創刊する前のロシア人のワシリー・カンディンスキー、アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーがいた。セルビアからはセルビア近代絵画の祖とされるナデジュダ・ペトロヴィッチがここで学び、彼女はスロヴェニアの印象派運動を牽引するリハルド・ヤコピッチ、イヴァン・グロハルなどと交流を深めた。ミュンヘンでのユーゴスラヴィア(南スラヴ)人としての交流は後に「ユーゴスラヴィア美術運動」の元になった。

ユーゴスラヴィア美術運動は、オーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国の大国に占領されていた地域に住む南スラヴ系の芸術家たちが連帯し、自身の文化や歴史に誇りを持ち、また遅れていた教育・文化レベルを押し上げる運動であった。ユーゴスラヴィア芸術運動は、すでに大国から独立していたセルビアが政治的な面で主導的な立場にあったと言えるが、運動に参加した各民族の芸術家たちは「近代芸術」という新たな言語を使って「ユーゴスラヴィア」という明確な国境はないが「概念」として存在する領域を芸術の力で浮かび上がらせるある種の「理想」を目指した運動であった。それは民族的なモティーフや歴史を視覚的に伝える旧来の芸術ではなく、自然やその土地に生きる人間が纏う「気質」を描くことで現れると彼らは信じていた。

1911年のローマ国際博覧会のセルビア・パヴィリオンでは、ユーゴスラヴィア美術運動に参加し、「クロアチアのロダン」とも呼ばれる彫刻家イヴァン・メシュトロヴィッチのセルビアの民話を題材とした彫刻作品を発表した。主題はロマン主義的であるが、人物のほとばしる感情を表した彼の彫刻は国際的な舞台で高く評価された。

近代美術はしばしば急速に発展、変化する様式を元に論じられるが、セルビアの近代美術史では芸術家が人間の「気質」を描き始めたことに近代美術の始まりを見出している。様式や技術は科学的に比較、検討することができ、西洋・東洋の問題や作品の背景にあるイデオロギーなど政治的側面を浮かび上がらせることができる。しかし近代は、芸術が分析できるものと考えた一方で、科学的に分析することが容易ではない人や物や自然が纏いそして持つ「人間性」を発見し、芸術家たちがそこに価値を見出した時代でもあった。

ユーゴスラヴィアの概念を用いた芸術活動は、第一次世界大戦後のユーゴスラヴィア王国時代には、国内外の各都市を繋ぐアヴァンギャルド運動としても展開される。セルビア人のリュボミール・ミチッチが始めたゼニット運動(Zenitisam)は、雑誌の出版活動を中心に、国際的なアヴァンギャルド芸術運動を起こし、ロシアのエル・リシツキー、イリヤ・エレンブルグなどをユーゴスラヴィアへ紹介した。ミチッチは、第一次世界大戦によって破壊されたヨーロッパを、東洋と西洋の狭間に位置するユーゴスラヴィアのゼニットがプリミティヴな「野蛮さ」によって「バルカン化」することをマニフェストとして掲げ、西洋の資本主義文化に争うことを目指した。

さて、Aコレクションの根底にはロシア・アヴァンギャルドの影響があることはすでに述べたが、ロシア・アヴァンギャルドの周辺のこのような環境に、近代を受け入れながらも「人間」を諦めない芸術家たちの姿や意志が見えてこないだろうか。地域に根付き、土着的なものに価値を見出すことは、芸術家が破壊的な近代を「人間的」に生き抜くための手段の一つだったと言えるだろう。

本展に展示されたセルビアの芸術家たちはみなセルビアを拠点とするものたちである。セルビアに留まる理由はそれぞれだろうが、生まれた地で自身と向き合いその土地の人と生活を送り制作活動を行うことは、近代の芸術の精神と根底的に通づるものがある。

セルビアにおいて、そのような近代の精神は最初にミュンヘンで培われた。本展に作品が展示されている原口典之の初めての個展(2001年)が、ドイツ表現主義の作品を多く有するミュンヘンのレンバッハハウス美術館であったことも不思議な縁である。

Aコレクションの根幹にも関わる松澤宥は、出身地である下諏訪を拠点に、芸術活動によって概念を浮かび上がらせる概念芸術家であった。美学校の活動など、地域における教育者としての側面も含めて、近代美術の言語を使い概念を浮かび上がらせる彼の運動は、ユーゴスラヴィアという概念としか存在しなかったものを浮かび上がらせる「ユーゴスラヴィア芸術運動」と共通するものがあるように感じられる。

そして鳥取県の倉吉という土地にセルビアの現代美術作品が集まったきっかけは、画家ミラン・トゥーツォヴィッチの「リーリャ・ブリークのひみつの人生」(2015年)であった。この作品は、ロシアの芸術界のミューズとして知られたリーリャ・ブリーク(中央)と、夫でロシア・アヴァンギャルド運動の詩人でもあったオシップ・ブリーク(右)とリーリャの愛人であった詩人のウラジミール・マヤコフスキー(左)の三人の肖像を描いたものである。

トゥーツォヴィッチは「警察の資料や歴史的結論は、知ろうとする者に多くを語りうる。そのほうが楽なのだ。研究や論文はある側面に光を当てる。真実として。しかし、人の心の秘密は閉ざされたまま、心の持ち主と彼の内なる神のためだけにある。「リーリャ・ブリークの秘密の人生』は秘密を知る試みではなく、秘密が不可知であることを語る試みである」2と述べている。

ロシア・アヴァンギャルド界のゴシップとも言えるこの人間模様は、明らかにエロティックな雰囲気をまとっている。三連画は近代以前はキリスト教の祭壇画として用いられたものだが、この三人が描かれることによってトゥーツォヴィッチの言う「心の持ち主と内なる神」を持つエロスも内包する「人間」がここに賛美されていることがわかる。

エロスは触覚と関わるものである。村岡三郎は「触知は存在の根底」だとし3、体温の熱を鉄の棒を使って伝えるという作品や、他者や自身の記憶の中の体温をキャッチして行う体温ドローイングを制作した。

松澤が啓示を受けた「オブジェを消し」概念を伝えるアートのように、文学を読み終わった読後感、音楽を聞いて懐かしい気持ちになった時など、その瞬間受け手が一番意識される感覚は、村岡が言うように感覚の土台である触覚だったのではないだろうか。

「人間と芸術」。これは1921年に出版された雑誌ゼニットの第一号の一面に掲載されたミチッチによる文章のタイトルだ。科学の発展とはすなわち人間同士あるいは自然との物理的接触を引き離していくことであるのは疑いようがない。しかし本展は、そんな世界において芸術とは科学中心の社会から人間性を取り戻すアクションであり、作品、アーティストそれに展覧会を訪問した人たちの「繋がり」そのものが「人間と芸術」であるということを再確認できる内容だった。

  1. “現代ユーゴスラヴィア美術展”. 国立近代美術館.https://www.momat.go.jp/exhibitions/182 ,(参照2025-8-29) ↩︎
  2. ミラン・トゥーツォヴィッチ. “リーリャ・ブリークの秘密の人生”. 古賀亜希子. https://akikokoga.com/kurayoshi/text/text-01/ , (参照2025-8-29) ↩︎
  3. H. Factory.  “村岡三郎「記憶体」1997(69歳)”. 記憶体. https://hfactory.jp/muraoka/1997.html#transmittedheat, (参照2025-8-29) ↩︎

【文/山崎 佳夏子】美術史研究家。ベオグラード在住。岡山大学大学院在籍中に1年半ベオグラードへ留学し、セルビアの近代美術の研究をする。一時帰国を経て再度ベオグラードへ渡航し結婚。2020年に生まれた長男の育児中。主な著作に『スロヴェニアを知るための60章』(共著、明石書店、2017年)、『ボスニア・ヘルツェゴヴィナを知るための60章』(共著、明石書店、2019年)(共に美術の章の担当)。

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