My Serbia(マイセルビア)

セルビアの美・食・住の情報が集まるライフスタイルマガジン

青春の幻想を生きる ―尽きせぬ想い、セルビア―

【文/岸山 睦】 

もう遥か昔。1983年の秋。枯葉の季節である。わたしは言語学を学ぶためにセルビア共和国のベオグラード大学にいた。旧ユーゴスラビアには、まだ6つの共和国、すなわち、スロベニア、クロアチア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、マケドニアが共存していた。ベオグラードはドナウ川とサヴァ川の合流点に位置する美しい街である。内戦前の静かな雰囲気を楽しむことができた。多様性こそがユーゴの魅力である。当時カフェには若い兵士が見られ、ハリウッド映画の世界にでも紛れ込んだような感覚に陥った。そこにはギリシャ人やアラブ人、中国人、ハンガリー人、スロバキア人など多くの国籍の人もいた。

私の研究計画では、一日も早くセルビア語を覚え、<英語セルビア語比較文法>を書くことであった。当時のルーティーンでは午前中はInstitut za Strane Jezike「外国語学校」に行き、セルビア語を勉強する。午後は教授の研究室を借りて本を読み漁り、街でも例文を集める。セルビア語はロシア語よりも格変化が多く苦労した。それだけにやりがいがあり、言葉に魅了されていった。

夜になると学生寮にはドラガンという友達がアコーディオン(ハルモニカ)を聞かせに来てくれた。ジプシー音階は物悲しくも人生の喜怒哀楽を神秘的にしかも情熱的に表現する。時に軽やかに、時にゆったりと弾く、音楽のニュアンスが抜群だった。いつか彼のようにアコーディオンが弾きたいと強く願うようになった。生演奏こそが音楽であった。マケドニア人との出会いもあった。彼もドラガンといい、一緒にマケドンスコ・デヴォイチェ(民族舞踊)を踊ったことがあった。人は<居場所>を変えると考えまで変わるらしい。ひょっとすると留学の意義はそこにあったのかもしれない。イヴォ・ローラの学生寮では<言語>と<音楽>と<舞踊>が融合した感覚を味わった。

ベオグラード大学の寮室で大学の友人とともに

同室者のミリヴォーイ氏とは今も交流している。モンテネグロ出身で背が高く声も大きい。彼とはよく冗談を言い合った。大勢の友だちとスカダルリアによく飲みに行った。星月夜に歌ったのが「レーラ・ヴラニャンカ」という歌だった。

Volela me jedna Vranjanka ひとりのヴラーニアの女性が私を愛した

mladost mi je kod nje ostala 私の青春は彼女のもとにあった

nit je Sofka, nit je Koštana ソフカでもなく、コシュターナでもない 

već najlepša Lelo, Jelena 最も美しいイエレナだった

Pusto, pusto, pusto, mi je sve 虚しい。虚しい。虚しい。すべてが虚しい

nema, nema, nema, Jelene, いない、いない、いない、イエレナはいない

Dođi, dođi, dođi, Jelo, Jelena 来て、来て、来て、イエレナ

ti si moju mladost odnela あなたは私の青春を奪い去った

ああ、なんという哀切極まりない歌だ。青春をすべて奪うような熱狂的な恋歌。歌はもし彼女を見つけてくれたらわたしのすべてをあげよう、と続く。

同室者のミリヴォーイ氏とヴーク・カラジッチ像の前で

約半年という短い期間だったが、日々一つずつ言葉を覚えるのは貴重で楽しい体験となった。当時のセルビア人やモンテネグロ人との交友関係は今も続いている。周知のとおりユーゴは内戦に国土が荒れてしまった。サラエボでもサッカー場が墓地になったという話を聞いて、ほんとうに心が深く傷ついた。日本でその惨状を聞いて、ジャーナリストのリリャーナさん(当時サラエボ在住)には「お見舞い」を送ったりした。彼女は、わたしのことを「キスコ、キスコ」と言ってかわいがってくれた。

留学当時、彼女の家はベオグラードにもあり、一度ユーゴ大使館のKさんと一緒に食事にごちそうにもなった。一日電話番をしてくれなどと頼まれたことがある。案の定、電話がかかってきた。つたない言葉で会話したら、相手は外人の私に驚いた様子で「明日かけなおすのでリリャーナによろしく伝えてくれ」とのことであった。

言語は何といっても生活しなければ覚えない。学校だけでは足りず「生の文脈」が必要である。半年でサラエボ・オリンピックの通訳(ノルディック・複合)ができたのもユーゴ人と泣き笑いを経験したからである。リリャーナさんの甥のゾランがTetka「おばさん」と呼んでいたので、わたしにとってもユーゴのTetkaになった。セルビアを去る時にサン=テグジュペリの「星の王子さま」のクロアチア語版(Mali Princ)をいただいた。彼女はNajlepša knjiga「もっとも美しい本」だと言っていた。——王子さまはどこへ行ったのだろうか。王子さまはきっと生きているにちがいない。また、彼にとってのバラは、たいせつな恋人だったと思う。その星は愛する人がいるから、美しく輝いているのだ。砂漠が美しく見えるのも井戸を宿しているからだ。きっと、人それぞれの<大切な場所>がある。

わたしは今も自分の文脈に引き寄せて「星の王子さま」を読んでいる。クロアチア語版はハードカバーのしっかりとした装丁がなされていた。彼女は内戦を生き延びたが、何年かして亡くなったと聞いた。大学時代英文科生だったわたしが中東情勢に疎いと、「勉強は語学や文学だけではいけない。国際情勢も知らなければいけない」と貴重なアドバイスをくれた。

サラエボオリンピックの通訳のID

帰国後、学習はセルビアの友達との文通でほそぼそと続いていた。友はみな結婚し、子供ができ幸せな家庭を持っていた。そして37年の歳月。わたしも結婚して二人の子宝に恵まれ、忙しい日々が過ぎ去った。

毎年、秋になるとスーツケースを一つ持ってベオグラードに行ったことを思い出す。人は誰でも勇気を出してたった一人大海原に漕ぎ出なければならない時があると思う。後になって「よくあんなことができたものだ」と自分で感心することもある。ヘミングウェイは一度パリで青春を過ごすと一生パリは付いてくるということを言ったが、それはパリに限ったことではない。

今でも当時の出会いの一つひとつが愛おしい。とくに懐かしいのは画家のミラン・トゥーツォヴィッチ氏だ。彼はわたしの寮(Ivo Lola)に遊びに来たものだった。当時は今のように彼がヨーロッパを代表する画家になるとは思わなかった。「わが友ミランよ、そんなに偉くならなくてもいい。わたしは、あなたのひたむきな生き方と優しさを懐かしんでいる」に過ぎないのだから。

わたしがセルビア語も英語もギターも踊りもすべてやりたいと言ったら、彼はAko srce kaže「もし心が(言うのなら)求めているのならば」きっとできるよ、と応援してくれた。彼はボイスカ(兵役)にとられ、13ヵ月マケドニアに赴任した。マケドニアとはどんなところだろう。絵葉書で知るのみである。ミランは身体があまり強くないので心配だという声も聞かれた。やがて、わたしに一枚の肖像画が届いた。自分が兵役で大変な思いをしている時に日本の友達に絵を送ってくれるとは…。彼はかぎりなく優しく、かぎりなく勤勉で、友だち思いだった。

そんなミランは2019年の8月に心筋梗塞のため急逝した。驚いたことに、彼はローマ法王から肖像画を頼まれるまでの芸術家になっていた。もっとセルビア語に熟達して、話せたらよかったのに、と後悔の念が浮かんだ。娘のヨヴァナさんがわたしのために、「父が亡くなった私の心境です」と言って絵を贈ってくれた。荒涼とした風景に水がないプールが描かれている。ミランの絵に物語があるように彼女の絵にも物語があった。

この悲しみはどう表現したらよいか分からない。わたしは毎日ギターを弾いている。ミランが好きだったファルセータ(フラメンコのメロディーの小編)を弾く。というか、むしろ天国のミランに聴いてもらっている。ミランはよく”Dobro, dobro!”「いいよ、いいよ」と言ってくれた。ふと手紙を読み返すと“Prijateljstvo nema granica.” 「友情に国境はない」とあった。電車でサッと子供に席を譲るミランを思い出す。また明るい笑顔を思い出す。ひょっとすると青春とは後悔することの連続で、残りの人生は、その叶わぬ夢や想いをあがなってゆくことかもしれない。

このエッセイはわたしに懐かしいセルビアを思い出させ、新しい夢を出現させてくれた。「星の王子さま」ではないが、セルビアは友達がいるおかげでいつも輝いて見える。これは偶然ではなく、多くの人々の導きによるものであり、特にこの情報サイトを立ち上げてくださった写真家の古賀亜希子さん、セルビア大使館のティヤナ・ナガトさん、小柳津千早さんのおかげでもある。心から感謝申し上げたい。遅咲きの幻想はまだ非現実的ながら、今飛び立とうとしている。なんとなれば、わたしの青春はいまもセルビアを故郷としているのだから。

サヴァ川の岸辺でコローを踊る舞踊団の絵葉書(1983)

【文/岸山睦(きしやま むつみ)】昭和女子大学グローバル学部教授。法政大学講師。担当科目は「英語」と「言語学」。最近の趣味は「千本桜」をフラメンコギターで弾くこと。 

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