【文/嶋田 紗千】
長らくお休みしていた「セルビア修道院めぐり」(2021年3月から7月My Serbia連載)ですが、ぼちぼち再開します。今回はセルビア三大修道院の一つミレシェヴァ修道院についてです。すでにストゥデニツァ修道院とソポチャニ修道院はご紹介しています。
2021年秋に2ヶ月間壁画修復プロジェクトを実施している際に、突然ミレシェヴァ修道院へ行く機会が訪れました。この修道院は13世紀の貴重なフレスコ画が多く残されているため、撮影許可が下りにくいところとして有名です。
滞在していたジュルジェヴィ・ストゥポヴィ修道院の修道院長に撮影許可をどう取得すればいいか相談したところ、メールで取得して持参し、何か言われたら提示できるのが良いだろうと仰って、ミレシェヴァ教区に問い合わせてくれました。
その15分後、先方の秘書から修道院長に電話がかかってきて、「メールでの申請は不要です。私たちの文化遺産に協力してくれている人なら歓迎します」とあっさり許可を得ることができました。上手く説明してくれた修道院長に感謝しています。
宿泊していたノヴィ・パザルからミレシェヴァ修道院までは修復家の車で約3時間。セルビアの南西部は山岳地域で、起伏のある道を進んだ先が平原になっていました。シェニツァ町周辺は盆地となっており、なだらかな高原が続きます。羊が放牧されていて、ほのぼのとした景色が見られました。その先にはSNSの人気スポット「ウヴァツ渓谷」という蛇行する川があるそうです。
ミレシェヴァ修道院はプリイェポリエ(Prijepolje)という町の中心から6キロ離れた山の中にあります。近くにはミレシェヴァ川が流れ、修道院は川の名にちなんで名付けられました。1219年頃にステファン・ネマニャの孫にあたるヴラディスラヴ王子(のちに王、在位:1234-43年。Stefan Vladislav Nemanjić, 1198年頃-1267年)によって修道院は建立されました。霊廟として建てられた主聖堂はキリストの昇天へ捧げられ、南壁にはヴラディスラヴ王が寄進者として描かれており、その下に王の石棺があります。
聖堂は外観がロマネスク様式で、内部構造がビザンティン様式(平面図がギリシア十字)である融合建築ラシュカ様式です。東側の一区間が省かれているため、ドームを支える四角形の台座が至聖所側の東壁に直接寄りかかる構造となっています。現在はナオス(身廊)とナルテックス(前室)の間の壁が取り除かれており、天井が高く、広々とした空間です。外ナルテックスはのちに増築され、その後19世紀になってから筒型ヴォールト(かまぼこ型天井)が壊されて、その上にドームが載せられました。
ナルテックスには、ネマニチ朝の歴代の王が一列に並んだ図像があります。東壁には王朝の創始者ネマニャと当時の大主教サヴァ(ネマニャの息子で、死後に列聖され聖サヴァ、ヴラディスラヴ王の叔父)が配されています。
ナオスとナルテックスの間の壁が大幅に取り除かれたため、ネマニャの肖像画は半分だけ残されています。片目だけですが、眼光が力強く、とても印象的な修道士姿のネマニャ像です。サヴァはセルビア人を正教に導き、セルビア正教を独立させた人物です。そのため、今でも最も敬愛されるローカル聖人です。生前に描かれたのはこの肖像画しか残されておらず、非常に大切にされています。この図像は国内で広く流布しており、セルビアの至るところで目にします。
外ナルテックスはサヴァの意向で増築されたと言われています。アトス山からの帰路、サヴァはブルガリアで1236年に亡くなり、甥のヴラディスラヴ王が墓を用意して遺体を移送しました。修道士ドメンティアンが著した『聖サヴァ伝』によると、その後、遺体は墓から取り出されて聖堂の真ん中に聖遺物として据えられました。そのため、聖サヴァの修道院とも呼ばれ、巡礼地となっています。
中世時代から聖サヴァ信奉は絶大で、それを畏れたオスマン帝国は1594年に聖サヴァの不朽体をミレシェヴァ修道院からベオグラード(現在のタシュマイダン公園内 ※聖サヴァ大聖堂がある場所ではありません)へ持って行き、そこで燃やしました。不朽体はもう存在しません(聖遺物として「聖サヴァの左手」と呼ばれるものはありますが、真偽は不明)。21世紀になってから石棺だけ設置され、訪問者はその前で深い祈りを捧げて帰ります。
この修道院にはもう一つ有名なフレスコ画が残されています。通称「白天使」と呼ばれる「キリストの墓を訪れる聖女たち」の場面に登場する天使です。これはセルビアのみならず、中世ヨーロッパ美術で傑出した作品の1つと言われています。
白い衣に身を包んだ天使が石積の上に座り、二人の聖女に空の墓を指してキリストの復活を伝えるという聖書の一場面です。大胆な筆致で立体感を与え、今にも動き出しそうな描写です。
これは13世紀にコンスタンティノープルか、ニカイアまたはテサロニキで美術教育を受けたギリシア人画家による作品と考えられています。16世紀以降、長い間漆喰に埋められ、壁の中で眠っていました。20世紀初頭に上に描かれていたフレスコ画を剥がしてみると、素晴らしい天使の姿が発見されました。
1930年にプラハのスラヴ研究所で出版された『セルビアのモニュメンタル・アート』で初めてカラー図版として掲載されました。魅力的な表情の天使は高く評価され、さまざまなものに印刷されるようになりました。一説ではLPのジャケットとしてアメリカで使われ、有名になったとも言われています。しかし、私はまだそのLPを見つけ出せていません。ご存知の方はご一報を!
【文/嶋田紗千(Sachi Shimada)】美術史家。岡山大学大学院在学中にベオグラード大学哲学部美術史学科へ3年間留学。帰国後、群馬県立近代美術館、世田谷美術館などで学芸員を務め、現在、実践女子大学非常勤講師、セルビア科学芸術アカデミー外国人共同研究員。専門は東欧美術史、特にセルビア中世美術史。『中欧・東欧文化事典』丸善出版に執筆。セルビアの文化遺産の保護活動(壁画の保存修復プロジェクト)に従事する。