【文・写真/石川 美紀子】
私が内野義識(うちのよしさと)さんと初めて話をしたのは2023年、場所はセルビアではなく東京都武蔵野市、JFL東京武蔵野ユナイテッド(現横河武蔵野FC)の試合後のことだった。当時、内野さんは武蔵野のヘッドコーチ、私は同じく武蔵野のチームカメラマンである。私は2010年に初めてセルビアを訪れ、2013年から16年までベオグラードに在住していたが、内野さんもかつてセルビアでプロサッカー選手としてプレーしていたと聞き、時期は違えど日本人がほとんどいないセルビアに住んでいた2人が、お互いに紆余曲折を経てなぜか同じチーム内で仕事をしていたという事実に、「久しぶりにいとこに会った!」ぐらいの親近感を覚えたものである。
セルビアとハンガリーでプロサッカー選手としてプレーした後、オシム監督の通訳として日本代表チームに携わり、現在は東京都でクラブチームの代表として子どもたちの指導をしている内野さん。子どもの頃から何度もサッカーから離れようと思ったはずなのに、今はサッカーに人生を捧げているその数奇な道のりを、今回はセルビアではなく東京でインタビューした。

プロサッカー選手としてセルビアへ
ーーまずは子どもの頃、サッカーを始めたいきさつからお話を伺ってもよろしいでしょうか。
始めたのは10歳の時です。そもそもサッカーにそんなに興味もなかったんですが、友達に誘われて、適当に返事したのがきっかけ、というような感じのスタートでした。
ーーじゃあ、その当時はもちろん、こんなに人生をサッカーに捧げることになるとは、思っていなかったでしょうね。
そうですね。小学校時代は立川で、中学は青梅でサッカーを続けましたが、本当にサッカーが好きになって上を目指そうと思ったタイミングは高校の時だったと思います。国学院久我山高校で、高校選手権にも出場できましたし、出会えた監督やコーチ、先輩たち、仲間に本当に恵まれた環境でした。
ーー海外でプレーしたいと思い始めたのも、その頃ですか?
そうです。実は中学までは、全然サッカーが好きじゃなかったんですよ。めちゃくちゃ太ってましたし、フィジカルも低いし、よく怒られていて、いつも辞めようと思ってました。ただサッカーの感覚だけはちょっとあるのかもとは思っていたんですが。それが高校に入って、全く怒られることもなく、のびのびやらせてもらえて。周りからは、すごく能力がある選手として接してもらえました。監督や先輩たちから、いまフランス代表監督をしているディディエ・デシャンにプレースタイルがそっくりだと言われたり。そういうところから、海外に興味を持って、欧州サッカーの情報を追うようになりました。
ーーなるほど。ただ当時は今ほど気軽に海外挑戦できるような時代でもありませんでしたから、高校卒業から実際にセルビアでプレーするまで、また紆余曲折がありそうですね。
いろいろありましたね。高校を卒業する時点でプロサッカー選手になりたいとは思っていたんですが、Jリーグというのは僕の中には全くなくて。能力が低いというのは感じていましたし。大学に進学して、ずっと猛烈に、とにかく海外に行きたいと思いながらサッカーを続けていました。そこで偶然、トレーナーのような立場でチームにいた人から、海外に行く気はないか?と声をかけられたんです。僕はその人に、一言も海外を目指しているという話をしたことはなかったんですが。でも海外には行きたくてしょうがなかったので、そういうチャンスを与えてくれる人を僕はずっと待ち望んでいたんですよ。それが突然、目の前にあらわれた(笑)。もう即答で、いや行くことしか考えてないですと話して、当時のユーゴスラビアから日本に来ていたラトコ・ステボビッチさんに紹介してもらうことになりました。ただ、その後もなかなか思うようには話が進まず、大学3年になる2000年から、今のセルビア(当時はまだユーゴスラビア)に行くつもりだったんですが、ユーゴの空爆もあって、まずはラトコが監督をしていたリエゾン草津(現ザスパクサツ群馬)でサッカーを続けることになりました。結局、紛争が終わって実際にセルビアに行けることになったのは、2002年8月でしたね。
ーーそうなんですね。私が初めてセルビアに行ったのは2010年のことなので、そのさらに8年前ですね。当時はまだ、戦争の影響も色濃く残っていた時代だったと思います。
そうですね、それも含めて、全てが刺激的でした。ベオグラードからバスで1時間半ぐらいの街にある、Mačva(マチュヴァ)という2部リーグのクラブに所属していたんですが、最初は試合にも出られず、本当に難しいスタートでした。当時の監督のトレーニングがかなり緩くて、コンディションも落ちてしまって。試合にも出ていないので、練習や試合が終わったあとに1人で走ったり、そういう地道なことをずっとやっていましたね。監督が代わってから練習の強度も上がって、試合にも出られることになり、そのチャンスで良いプレーができて、そこからやっと使われるようになったという感じだったと思います。うん、普段はそんなに思い出したりしないんですが、こうして質問されると、やっぱり昨日のことのように思い出しますね。

セルビアでの言葉と世界とサッカー
ーー私の本来の専門分野は言語哲学で、「言葉とは何か」という人類の永遠のテーマを紐解く一端として海外で活動するサッカー選手にインタビューしているのですが、内野さんにも当時のことを振り返っていただいて、チーム内のでのコミュニケーションはどのように工夫していらっしゃいましたか?
チーム内には僕ともうひとり日本人選手がいて、あとは全員セルビア人でしたから、当然、ミーティングや試合中の選手同士の会話はセルビア語でした。セルビアに行く前にも少し勉強はして行ったんですが、まあ全然わかんないので(笑)、自分でセルビア語の教科書を買って勉強しながら、会話してみたり、辞書で調べたりというような感じでしたね。実は僕、そのころ英語は全然できなくて、全部セルビア語でチャレンジしてました。
ーーポジションはどこでした?
ボランチです。
ーーあ、それはかなり言葉が重要になるポジションですよね。これまで海外でプレーしているサッカー選手にインタビューしてきた中で、フォワードはあまり言葉に左右されないけれど、ボランチは後方からの指示を聞き取って、前にも指示を出してという意味で、話す力も聞く力もどちらも必要だということを聞きました。
うん、実際そうだとは思うんですが、なんでしょうね、僕たぶん現役時代からそんなに声を出してやるタイプじゃなかったんですよね。あんまり必要以上のことをしゃべっていなかった印象で、すごく後悔はしています。ただ、聞いて理解はできていたので、それを実行するということもできていた。監督からの指示も、感覚的に、ニュアンスをなんとなく理解するのは僕たぶん得意だと思うので、今のシチュエーションでこういうこと言われているなというのは分かっていたと思います。
ーーなるほど。これもよくインタビューで聞く話なんですが、言葉がある程度つかえるようになってきた時期と、チーム内での自分の立ち位置がしっかりしてくる時期、例えば試合に出てボールがちゃんと来るとか、チームメイトとの連携がうまくいくとか、そういう時期がリンクするというような感覚はありましたか?
うーん、なんか、仲間にけっこう強く言えるようになってからが、本当にチームの一員になったという感じはありましたね。汚い言葉で言われたときは、言い返す(笑)。セルビア語の汚い言葉を使って言えるようになってきたぐらいの頃から、相手も自分を認め始めたなと思いました。
ーーああもう、よーくわかります。基本的に物事はうまくいかないし、言いたいこと言われるし、それに対して言い返せなくて悔しい思いをしたり。言われっぱなしじゃなくて、言い返すのは大事ですよね。生活面も、私がベオグラードに住んでいた2010年代でも停電や断水は頻繁にありましたから、2000年代前半は本当に大変だったと思います。
2年半のセルビア生活で、最終的にはチーム内で戦術的な会話もできるようになりましたけど、とにかく必死でしたね。いつかこれが良い経験だったと思うようになるんだろうかと思いながら生活してました。ときどきベオグラードに遊びに行って、留学中の日本人の友達に会ったりして、そういうのが唯一の楽しみだったと思います。新市街のブロック70という場所に中華街がありましたよね。そこで食べる中華料理がめちゃくちゃ美味かったです。

オシム監督の通訳として日本代表に帯同した日々
ーーセルビアで2年半プレーしたあとは、ハンガリー2部のクラブに移籍して、その後はまた紆余曲折あり、2006年には日本代表を率いることになったオシム監督の通訳も務めていらっしゃいますね。まずはハンガリーに移籍してから現役を引退するまでのお話をお願いします。
セルビアにいたときの最後の監督が、ハンガリーのセゲドという街のクラブに行くことになって、僕も一緒にハンガリーに移籍したのが2005年です。その監督とセルビアで初めて会ったときは、お前が噂の日本人か、プレー次第では今日で日本に返すからな、というような始まり方だったんですが、そこで僕なりに良いパフォーマンスだったのもあって、監督も認めてくれて。そこからもう、いつも一緒ぐらいな感じの信頼関係を築けて、評価してくれていたので、一緒にハンガリーにも行くことになりました。ただ、給料の未払い問題などもあって、監督が辞めることになり、いなくなっちゃったんですよ。で、違うチームから声をかけてもらって、半年で移籍したんですが、そこでも契約が切られてしまってまた半年で移籍して。結局、半年ごとの3チームで、ハンガリーでは1年半プレーしたところで、日本に帰国することにしました。というのも、当時一緒にやっていた仲間のひとりから、「なんでお前こんなに経済の悪い国にわざわざ来てサッカーやってるんだ」と言われたことがあって、それが僕の中ではけっこうショックだったんです。僕としては海外でプレーしたいという価値観で来てるんですが、確かに経済という観点で言ったら日本の方が裕福だし、理解できないことなのかもしれないなと。それが、もう日本に戻ろうかなと思うきっかけにはなりました。すごくお世話になった良いヤツに、この経済環境の中でサッカーを続けること自体がナンセンスだというようなことを言われたことで、まあ、その通りだよなとは思ったんですよね。
ーーそれが27歳の時ですね。
そうです。帰国して、もう海外には行かないと頑なに決めてはいたのですが、選手としての現役は続けたかったので、日本でサッカーを続けられるところを探したりもしていたタイミングで、電話がかかってきたんですよ。オシムさんが日本代表監督になるから通訳を探しているけど、やる気あるか?と。僕、全然やる気なかったんですけどね(笑)。まだ選手としてサッカーやりたかったですし。だから悩みましたよね。通訳なんかやってたら、もう選手としては戻れないよなとか、いろいろ考えました。親に相談したら、まあびっくりして、そんな話、受けないなんてことあるのかと。僕は、全然ピンとこなかったんですが、ただそういう人の近くでサッカーに関わるというのも、何かのプラスになるのかもしれないという、本当にそれぐらいの感覚で、じゃあ引き受けてみようかということになりました。
ーーオシムさんの日本代表監督就任が2006年7月なので、その時のお話ですね。
はい。監督の就任当初、通訳は3人体制でした。メインの通訳は千田善さん、のちにランコ・ポポビッチ監督(町田ゼルビア、鹿島アントラーズなどを指揮)の通訳も務めることになる塚田貴志さん、そして僕でした。その中では僕がいちばんセルビア語が話せなかったと思いますが、つい最近までプレーしていて、いちばん動けるということで、ピッチに入って一緒にプレーしたりもしながら選手に伝える役割でした。いやでも本当にすごい緊張感の現場でしたよ。通訳をミスして伝わっていなかったら、めちゃくちゃキレられて立たされたりとか。出てけ!と怒鳴られたこともありましたし、もうね、ピッチに立ちたくない、と本当に思ったぐらいです。でもオシムさんはそうやって、あえて選手たちの緊張感を作っていた感じはありましたね。結局、日本代表の通訳の仕事は半年で辞めてしまったんですが、でもその半年で、アジアカップもあったので、イエメンやサウジアラビア、インドなどにも行きました。
ーーそれはすごい経験ですね!
いま思えばすごい経験だったんですが、当時はまだ指導者になりたいと思っていなかったので、そういう視点でオシム監督の指導を見ることもなく、それは少しもったいなかったですね。

「サッカーなんてもういい」からの再出発で指導者の道へ
ーー現在は東京でジュニアユースまでのクラブチームの代表をしていらっしゃる内野さんですが、指導者になろうと思ったのはどのような経緯だったのでしょうか。
オシム監督の通訳を辞めたあとは、いったん就職したんですよ。もうサッカーからは離れたいと思って。でもね、それでもやっぱりいろいろと未練があったんでしょうね。仕事を半年で辞めて、なぜかもう1回、ハンガリーに行ったんです。就職して貯めたお金で1か月、ハンガリーの大学みたいなところで言葉の勉強をしながら、お世話になったクラブに帯同して、なぜか一緒に合宿とかにも行って。そこで、現役時代にこっちは全く知らなかった人から、お前サッカー選手だっただろ、戻ってきたんだなと声をかけてもらったりして。そういうことも全部含めて、おれはこれまでサッカーを通して本当に多くの人と関わって、お世話になってきたんだと思ったんです。感謝しなきゃいけないなと。こんなに豊かな人間関係で最高の経験ができたのに、もうサッカーなんて、と思ったりしていた自分がいたのを、反省しました。指導者になって、とにかくサッカーと関わり続けようと思うようになりました。
ーーそこで初めて、指導者にという道に進むわけですね。いやもう、とっても良いお話です。
うーん、いや僕はね、実はすごい闇を持っているんです。2002年にセルビアに一緒に渡ったもうひとりの日本人選手は本間和生といって、今も世界中を渡り歩きながら現役を続けているんですが。彼は当時から能力も高くて順調にキャリアを上げていくのを、うーん、僕はなにか負けたように感じて悔しく思っていたようなところがね、あったんです。セルビア語で「1番目」の意味で「prvi」と言いますよね。彼はいつも「prvi」で、僕は2番目の「drugi」。そういう言われ方を2年間ずっとされ続けてきたのが、僕の中ではめちゃくちゃストレスで。いや、いつまで経っても第2かよ、みたいなね。もちろん負けたくはなかったけど、でも現実として彼のレベルにはなかなかたどり着けない。それで卑屈になったりもしていました。そういうこともあって、サッカーなんてもう辞めようと頑なになってしまっていたんだと思います。そういうネガティブな感情が、ハンガリーに戻った1か月で、ふっと楽になって気付いたんです。そんなことよりももっと大きな世界を見なきゃいけないだろうと。
ーー刺さりますね。わかります。その気持ち、とてもよく理解できます。
ハンガリーから帰国して、指導者になるにはどうしたらいいか、自分が中学の頃にお世話になっていたクラブに話を聞きに行きました。まずはライセンスを取らなければいけないから、ということで、その青梅のクラブで指導者としての経験を積ませてもらえることになって。その後、自分のクラブを持ちたいと思い、現在は「VERMELHO(ヴェルメリオ)」というクラブチームの代表として、ジュニアユースまでの子どもたちの指導をしています。
ーー2002年にセルビアに渡ったときには、全く考えてもいなかった人生ですね。同じように、私も今はセルビア女子代表チームにフォトグラファーとして帯同したりもしていますが、2010年にセルビアに来ていなかったら、まったく違う人生だったと思います。セルビアって、そういう不思議な国ですよね(笑)。最後に、これからも大きな世界を目指して挑戦は続くと思いますから、今後どのような目標やビジョンを描いていらっしゃるのか、お聞かせください。
僕自身が子どもの頃から目立つような選手ではありませんでしたから、子どもたちに対しても、地味な選手や自分をうまく主張できない選手を丁寧に見ていきたいなというのはありますね。その上で、世界を舞台に活躍できるような選手を育てて、その育成費がクラブに入るようになれば、月謝なしでも新たな可能性のある子どもたちを育てることができる。そういう運営ができるクラブにというのが将来的な目標です。そのために、僕自身も指導者としてのステップアップを図らなければと思っていて、近い将来もう一度ヨーロッパに行って、クラブチームで指導者としての経験を積む機会を探しています。なので、次は是非、セルビアで指導しているときにインタビューしていただけたら、とても嬉しいですね。

【プロフィール/内野義識(うちのよしさと)】1980年1月24日生まれ。東京都出身。現在は、東京都足立区などで活動するクラブチーム「ヴェルメリオ」のクラブ代表兼ジュニアユース統括。
【文/石川 美紀子】セルビアをはじめバルカン地域を中心に、サッカーと文化とコミュニケーションの関係をリサーチしているフィールドワーカー。もともとの専門は言語哲学だが、本業(大学教員の端くれ)のかたわらインタビュー調査でバルカン諸国をまわり、現地で活動する日本人サッカー選手を取材するようになる。主な著書に『挑戦者たちが向き合った世界と言葉—ここではないどこかでサッカーをするということ』等。最近はスポーツフォトグラファーとしても活動中。