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歴史と今が交差する。セクリッチ夫妻のイコンコレクション【ベオグラードアート通信・第2回】

【文/山崎 佳夏子】

二〇二二年七月頭。日本でも今年は六月中にもかかわらず連日酷暑だというニュースが流れていたそうだが、ベオグラードも同じで連日最高気温34℃…。セルビアの学校は六月中旬に夏休みに入り、街や団地からは徐々に人が減り、多くの人がギリシャやトルコ、モンテネグロなどの海、または国内の山や湖などへバカンスに出かける。六月末に休暇を取った人にはこれくらい暑い方が理想的なのだろう。これから八月末までの二ヶ月間「ベオグラードから人が消えて行く」。

そんな猛烈な暑さの七月最初の週末、ベオグラード市博物館がノーチ・レガータ(Noć legata)と称したナイト・ミュージアムイベントを開催した。Legatとはセルビア語で遺産と言う意味で、亡くなっている偉人などの記念館を指すこともある。ノーチ・レガータでは、普段は昼間しか開いていないリュビツァ王妃の館やイヴォ・アンドリッチ博物館などのベオグラード市博物館が管理する記念館が夜8時から夜中の0時まで無料で開放された。開放された記念館の中に、私が前々から気になっていたが訪れたことのなかった「セクリッチのイコン記念館」があり、真夏の夜に少しでも外に出かけたいと言う気持ちがあったので行くことにした。

建物入口の看板。「ベオグラード市博物館 セクリッチ記念館 一階」と書いてある。

住所を確認するとこのイコン記念館は学生広場のすぐ近くにあり、周りにはベオグラード大学の建物やユーゴスラヴィア映画アーカイブ、民族博物館があるので今まで幾度となく通っていたのだが、今まで一度もこの場所の存在に気づくことがなかった。住所の場所に到着し、アパートに入るように部屋のブザーを鳴らして正門玄関を開けてもらい、細い階段を登って行くと二階が記念館だった。時間は夜8時過ぎ。アパートの扉を開けるとそこには壁中にぎっしりと絵が飾られていて、まるで美術館のよう。しかしここにはパンフレットも、壁に貼られた説明書き(キャプション)もない。美術館という場所がそうであるように、来客者に一つずつ絵を見せることを目的としていたらこんな風に壁中に絵は飾らない。私と連れ以外に三人ほどの人がすでに記念館に入っていたのだが、学芸員の女性はガイドツアーが始まるかのように「この部屋にある絵は全てセクリッチが住んでいた時のままの配置になっています」と話し出した。

大きな絵はセルビアの画家ステヴァン・アレクシッチによる《ゴルゴダ》。

結局のところガイドが一方的に話すツアーにはならなかったのだが、大体こういう時は質問が止まらない初老の客がいて、そこから出た情報を得ながら部屋をじっくりと眺める。学芸員の女性の知識も豊富で、場所を移動しながら大事なところをちゃんと説明してくれる。部屋は5部屋あったがあまり広くないので、このように和気あいあいと説明を聞くのがちょうど良い。

来客用の食堂。コレクションの中で生神女(聖母)のイコンが最も多いそう。

このアパートの元家主かつコレクションの収集者はミラン・セクリッチ(1895-1970)と言う人物で、著名な建築家だったそうだ。ベオグラード中心の歩行者天国クネズ・ミハイロ通りの入口に建つパラタ・アルバニアなどの設計に携わった。この記念館のある建物も彼の設計であるらしい。ミランは妻のパヴァとイコンを中心とした美術品の収集に情熱を注ぎ、集まったイコンは165点に上る。個人のイコンコレクションとしては国内最大の数だそう。夫妻の死後、邸宅と美術品のコレクションは寄贈され保存されたが、記念館は長いこと公開されておらず、二年前にリノベーションが終わり一般公開されたことで存在が少しずつ知られるようになった。

「ロシアの部屋」。他の壁全面にもイコンが広がる。

ガイドによると「ロシアの部屋」と呼ばれるロシアのイコンが飾られた食堂がこの家の核となる部屋らしい。ここのイコンはセクリッチ夫妻がロシア革命からセルビアへ逃げてきたいわゆる白系ロシア人から買い上げたものだと言う。みんなどうしても同じことを考えてしまうが、そうこうしているうちに入口から「ロシアから来て、セルビア語がまだあまり話せないんです」と片言のセルビア語で話す家族が美術館に入ってきた。セルビアには今ロシアからの移民が増えて来ているのだ。

寝室にだけ近代絵画が飾られていた。

夫妻の美術コレクションはイコンを初めとした宗教画がほとんどだが、一九世紀のセルビアの貴族の肖像画や、セクリッチ夫妻が生きた時代と同世代の画家であるマルコ・チェレボノビッチやサヴァ・シュマノヴィッチなどの絵画もある。フランス美術の影響を受け、ブルジョワ階級の日常や室内の様子を描くアンティミスムがユーゴスラヴィア王国時代のセルビアでも流行ったが、ブルジョワ階級のセクリッチ夫妻のこの邸宅はまさにその時代の家であると言える。近代絵画はその時代を絵の中に写すが、家と同時代の絵画が飾られ、そして様々な時代と地域のイコンが飾られる空間はまるで時空を超えるような場所だった。

この場所とこのイコンたちが今ここにあること。夫妻のイコン収集への情熱は信仰心か、愛国心か、美術品への愛情によるものなのか…それらはどれも大事で入り混じっているように感じられた。この真夏の特別な夜にセクリッチ夫妻の旧宅で現在と過去、そしてモノと運命を感じる不思議な夢でも見たような感覚に襲われたのだった。

場所情報

Legat ikona Sekulić

住所:Uzun Mirkova 5, Belgrade, Serbia

営業時間:金 10:00-18:00、土 10:00-17:00、日 10:00-14:00  


【文/山崎 佳夏子】美術史研究家。ベオグラード在住。岡山大学大学院在籍中に1年半ベオグラードへ留学し、セルビアの近代美術の研究をする。一時帰国を経て再度ベオグラードへ渡航し結婚。2020年に生まれた長男の育児中。主な著作に『スロヴェニアを知るための60章』(共著、明石書店、2017年)、『ボスニア・ヘルツェゴヴィナを知るための60章』(共著、明石書店、2019年)(共に美術の章の担当)。

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