My Serbia(マイセルビア)

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外交の歴史における最初の円卓

【文/本田スネジャーナ】

アーサー王と彼の騎士達についての伝説はよく知られていますね。それはエクスカリバーという剣やキャメロット城やアーサー王と円卓の騎士についての物語です。円卓は伝説の中ではそこに座った全ての人びとが平等であることの象徴です。その円卓が単なる伝説から現実の世界に入り込んできて、実際の平和交渉にとってかけがえのないものになった、その場所と時を想像したことがありますか。

それは今日のセルビアの領土で 1699 年に起こりました。セルビアは当時トルコ領で、15世紀の終わりから支配されていました。トルコ(オスマン帝国)は全バルカン半島を占領しており、さらに中央ヨーロッパに侵攻しようと目論んでいました。それを阻止しようとしたのはオーストリア(ハプスブルク帝国)とその同盟国で、ロシア、ポーランドそしてベネチア共和国です。それらの国々はキリスト教同盟を結びました。戦いは16年間もの長い間に渡って続きました。トルコはついに戦いを継続させることを諦め、平和交渉を始めることになりました。

オーストリアとその同盟国側とトルコ側が交渉をしました。平和交渉の間イギリスとオランダが調停役を果たしました。交渉は72日間続きベネチアの代表者が交渉中に死んでしまうほどとても厳しいものでした。交渉は最初から大きな問題に直面しました。どのような順番で、交渉が行われている場所に派遣団が入るのかという問題です。誰が上座に座り、誰が下座に座るのか、その問題が解決されない限り交渉も始めようがありませんでした。

入場の問題は、木造の小屋を建てることで解決しました。その小屋にはどの派遣団もそれぞれの扉から入れるように四つの扉がありました。皆同時に入場することが出来ました。席順の問題はアーサー王の伝説を思い出したイギリスの代表団のおかげで解決したのです。その時に外交上の必要性のために最初の円卓が作られました。

平和交渉の様子

Karlovac 平和条約は 1699 年 1 月26日に締結されました。興味深いことに、トルコ側は平和条約が真夜中の15分前に締結されることを主張しました。その訳は、トルコ人の占星術師がその時間に星々が最も理想的な位置にあると占ったからです。

平和条約の締結によって現在のセルビアの北部はトルコからオーストリアの支配下に移りました。交渉が行われたSremski Karlovci と言う町のとある場所に今日平和チャペルが立っています。楕円形をしたチャペルはかつての円卓を思い出させます。チャペルには四つの扉があります。トルコの扉だけは壁で密閉されています。あたかもトルコの支配が二度とセルビアの国土に至らないようにと語っているかのように。

ドナウ川のほとりに佇む現在の「平和チャペル」

翻訳/本田昌弘

<了> ※次ページはセルビア語


【文/本田スネジャーナ】セルビアの首都ベオグラード生まれ。ベオグラード大学にて電子工学を学んだのち、89年に結婚を機に福岡に来日。フリーランスの英会話講師として勤務しつつ、セルビアの文化を講演会や料理教室を通して積極的に発信している。また、ボランティアとして日本語教室でも講師を務めている。セルビアの雑誌「Novi magazin」にて日本の紹介記事を執筆中。三児の母。

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