My Serbia(マイセルビア)

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青春の幻想を生きる(2) ―私のセルビア学―

【文/岸山 睦】

1984年に、セルビアでの約半年の留学から帰国した(※前回の記事はこちら)。短い滞在であったのに多くの人が心に残った。その後何年か学習塾、大学の非常勤などで英語を教え、1990年に運よく昭和女子大学の専任講師として招聘された。

夏になり、秋になり、そして冬になるとクリスマスカードが届き、そして毎年ベオグラードの雪景色を懐かしく思い出していた。友はみんな元気だろうか。こちらは、英語の授業、ボストン出張、学寮研修、学校行事、そして委員会の仕事などに忙殺されていった。それでも何人かのセルビア人と文通はしていた。友人からはセルビア語を忘れるな、という内容の手紙がときどき届いた。しばらくすると、1991年からユーゴ内戦の情報が日本に入ってきた。それは、悪夢のような、苦しい歳月だった。しかし、多くの日本人にはセルビア、クロアチア、スロベニアなどまったく理解できなかったに違いない。

しばらくすると、クロアチア人の英語の先生が大学に入ってきた。彼女とセルビア語でしゃべるのは楽しかった。二回目に会った時に、Zdravoとセルビア風の挨拶をしたら、Ti si kao komunist「あなたコミュニストみたい」と言われたので、その後は、Dobro jutro「おはようございます」 Dobar dan.「こんにちは」に変えることにした。クロアチア語はセルビア語と若干違うが、一時期はSerbo-croatian「セルビア・クロアチア語」と言い、一言語に数えられていた。その後クロアチアは独立したがために、セルビア語との違いを明確にしなければならなくなったのだと思う。当時は<ユーゴ人>という言い方もあった。

 帰国後まもなくのことだった。大学の事務局で食事をしていた人がいたので、思わずセルビア語の「プリヤ―トノ」(Prijatno)という言葉が出てしまった(旧ユーゴでは食事をしている人には「あなたが食事できて私もうれしい」という表現がある)。居合わせた人がよほど気に入ったらしく事務局ではしばらくPrijatnoというセルビア語がはやっていたそうである。フランス語のBon appétit「召し上がれ」とは少しニュアンスが違い、ロシア語のПриятноも単語は同じながら、セルビア語のように限定的には使われない。

<あなたが食事できて、わたしも嬉しい>という表現が存在すると、そのような気持ちが生まれてくる。セルビア語に教わった文化人類学的側面である。

ことばとモノ(事象)の関係は面白い。

翻訳が難しい言葉がたくさんある。その一つにsimpatičan(男)とsimpatična(女)がある。日本語に訳すと「感じがいい、素晴らしい」であるが、初めてあった人が直感的に「いい人」である場合によく使った。わたしの話は30年前の話であるから今は使うか分からない。語源は英語のsympathyとつながるが、sympathetic「同情に値する」とはまったく違っている。

ここで当時よく聞いたセルビア人名の語源をあげておきたい。

名字

Karadžić<Kara「黒い」

Marković<Marko「マルコ」

Petrović<Peter「ペトロ」

Jovanović<Jovan「ヨハン」

男性名

Dragan<drag「愛すべき」

Zoran<zora「夜明け」(日本語の「空」に似ている)

Nebojša<ne boji se「恐れない」

Goran<gora「山」

Milan<mio「喜ばしい」

Mladen<mlad「若い」

Nikola<nikola「勝利者」(ギリシャ語のνίχη<勝利>+λαόϛ<人>)

Rade<rad「働く」

女性名

Mila<mio「喜ばしい」

Liljana<「ゆり」

Vesna<「春」

Snežana<「雪」

Vera<「信頼、真実」

有名な言語学者Vuk KaradžićのVuk「狼」は、悪魔に連れていかれないようにと考えられたらしい。Karadžićで思い出したが、昔からkaraは「黒」に通じるという説がある(cf.日本語の「カラス」)。かつてセルビアはトルコの支配を受けたことがあり、借入語としてトルコ語が残っていることが多くある。心にいろいろな繋がりが浮かんできて楽しい。

セルビア語の料理で「チェバプチッチ」があるが、トルコ語の「ケバブ」(kebap=roasted meat)と関係があるのではないかと思う。言葉は時を超えて長い旅をすることがある。「趣味のセルビア語」も、新たな<発見>と<調査>がある限り終わりそうにない。


昨年2020年2月、銀座のSteps Galleryで友人ミラン・トゥーツォヴィッチ氏の追悼展があった。作品中、バリカンが上部にある肖像画があった。そして、関係者から「バリカン」はセルビア人の発明だと聞いた。ミランの作品にはすべてストーリーがあるという。

かつて金田一京助博士がバリカンの語源を追って東京中の床屋さんを探し、「喜多床」でフランスの製造会社の名前Bariquand & Marreを見出され、歓喜されたという。

ミラン・トゥーツォヴィッチ「理容室シリーズ」作品全体像

私はさらに、ここでそれがセルビア人のニコラ・ビズミッチNikola Bizumić(1823-1906)の発明であることを知ることができた。これはビズミッチその人である。私はセルビア人の素晴らしさをもっと広めたいと思う。決してジョコビッチやニコラ・テスラやサッカーだけではない。

ミラン氏のおかげで私はバリカンの発明者がセルビア人であることを知った。なお、この情報は写真家の古賀亜希子さんからいただき、大使館通訳の小柳津千早さんにも調べていただいた。お礼申し上げたい。私にとって、セルビア学はこれからも知的冒険となり続けるに違いない。


【文/岸山睦(きしやま むつみ)】昭和女子大学グローバル学部教授。法政大学講師。担当科目は「英語」と「言語学」。最近の趣味は「千本桜」をフラメンコギターで弾くこと。 

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