【文/本田スネジャーナ】
セルビアは多くの戦争を闘ってきたが、“大”という文字を使って大戦と呼ばれるのは、 ただ一つだけである。それは1914年から1918年にかけて戦われた第一次世界大戦であり、セルビアの歴史の中で格別の位置を占めている。それは単にセルビアの人口の28パ一セントもの人々が、四年にわたる戦争の中で命を落としたという理由からだけではなく、その戦争の只中で、セルビア民族の大胆不敵な勇敢さがいかんなく発揮されたからである。その戦争の結果、セルビア民族はトルコやオーストリア・ハンガリー帝国からの民族解放・独立をようやく勝ち得ることができたのである。その戦争には多くの英雄が輩出されたが、これは、一人の女英雄、セルビア軍の軍曹ミルンカ・サヴィッチの秘話である。
ミルンカは、コパオニク山の中腹に位置するコプリヴニッツァ村に生まれた。当時ほんの目と鼻の先にトルコとの国境があった。情勢はかなり逼迫し不安定だった。貧しい家族サヴィッチ家の長女として生を得たミルンカは、幼い頃から一生懸命働き、年下の兄弟姉妹の世話をするのが常だった。父親が銃の使い方を教えてくれて、すぐに上手に取り扱えるようになった。体つきはがっちりしていて大柄だった。昼間は畑を耕したり、家畜の世話をしたりして過ごした。彼女がいかにして兵隊になったかについては、色々な逸話が残っている。その中で最も心に叶うものは、ミルンカが召集を受けた弟に代わって兵役に就いたというものだ。1912年の第一次バルカン戦争に志願兵として出征する際に、ミルンカは髪をばっさり切り、男性の服装をした。当時女性に許されていたのは、医療要員として軍に加わることだけである。ミルンカはそれが気に入らなかった。名前をミルン(男性名)に替え、前線へと戦いに赴いたのだ。
優秀な兵士として頭角を現し、前線で手榴弾の投げ手として活躍した。第一次バルカン戦争を通して女であるという秘密を隠しおおすことができた。がしかし、兵役に就いて一年以上が過ぎた頃、第二次バルカン戦争中ブルガリア軍の砲弾により胸を負傷してしまっ た。それで医者に女性であることを看破されてしまった。怪我の回復後、司令官に呼び出された。彼女は優れた兵士だったので、司令官は彼女を処罰したくなかった。そこで、看護婦として働くことを提案した。が、ミルンカはそうしたくなかったので、手榴弾の投げ手として軍隊に残れるよう求めた。司令官は彼女にこう告げた、一晩よく考えてみて、翌日考えがまとまったらお前を呼び出そうと。一方ミルンカは、司令官の決定まで静かに待つ覚悟ができており、「待機しています」と応えた。一時間後彼女は兵隊として戦い続ける許可を得た。
第一次世界大戦中、彼女はセルビア軍の選り抜きのエリート連隊「鉄連隊」の兵隊であ った。ミルンカの戦いぶりについては多くの言い伝えがある。そのほとんどは確実に本当の話である。なぜなら彼女は九度負傷し、その勇猛果敢さを讃えて、十二個のメダルを授与されたからである。彼女は歴史上最も勲章を授与された女性である。数多のセルビアからの受勲以外に、フランス軍からは二度レジョンドヌール勲章が授与され、その勇気を讃えてイギリス軍とロシア軍からもメダルを授与された。
ここに一つの逸話がある。彼女は偵察中にブルガリア兵の小部隊に遭遇したのである。 彼女は彼らの前に飛び出すなり、彼らは既に包囲されていると告げたのだ。そして一人ずつセルビアの前線に行くよう命じた。たった一人で23名の敵兵をまんまと捕虜にしたのである。
セルビア軍はセルビアから退却した後、フランス軍と共にギリシャに滞留することになったが、その間セルビア兵とフランス兵との間で一つの話題に花が咲いた。ミルンカが手榴弾を無比の正確さで投げることができるというのは事実かどうかと言うのである。彼女は訳なく40メートル先の的に命中させ、18本の最高級フランス製コニャックを贈られると戦友たちと共に飲み干した。彼女はついにはフランスで、セルビアのジャンヌ・ダルクと呼ばれるまでにいたった。戦後フランス人は彼女にフランスに来て軍人年金で生活するよう申し出たが、彼女はそれを断った。
戦後彼女は結婚し娘をもうけたが、夫とはすぐに離縁してしまった。その後さらに三人の女の子を養子にすると、銀行で掃除婦として働きながら彼らを育てた。自身は学校には全く通ったことがなかったが、生涯貧しい子供たちが学校に行けるよう支援した。彼女の質素な家に、三十人以上の子供たちが受け入れられ、学校教育を終え、真っ当な道に導かれた。
大戦間の時代に彼女はヨーロッパ中で敬愛され、記念式典や無名兵士の墓に献花する際には招待された。彼女は常にセルビアの民族衣装で赴き、たくさんの勲章を飾りとして身に付けた。社会主義のユーゴスラビアにおいては、しかしながら、ほとんど忘れ去られてしまった。彼女に代わって他の英雄たちが登場したのである。1973年彼女は不帰の客となり、一家の墓に葬られた。死後40年を経て、彼女の遺骸は偉人たちの眠る「アレー ヤ・ヴェリカナ」墓所に移葬された。
ミルンカ・サヴィッチの伝説は今日も語り継がれている。
翻訳/本田昌弘
<了> ※次ページはセルビア語
【文/本田スネジャーナ】セルビアの首都ベオグラード生まれ。ベオグラード大学にて電子工学を学んだのち、89年に結婚を機に福岡に来日。フリーランスの英会話講師として勤務しつつ、セルビアの文化を講演会や料理教室を通して積極的に発信している。また、ボランティアとして日本語教室でも講師を務めている。セルビアの雑誌「Novi magazin」にて日本の紹介記事を執筆中。三児の母。