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ヴーク・カラジッチ ー セルビア語正書法の父

ヴーク・カラジッチ

【文/本田 スネジャーナ】

我々セルビア人は自分達のアルファベットを誇りに思っています。世界でもっとも簡明で、理にかなったアルファベットだと言いはやしています。その要点は、一つの文字につき一つの発音というものです。ドイツ人の文法学者にして言語学者であるヨハン・クリストフ・アーデルングは「話すように書きなさい。そして書いてある通りに読みなさい」という原則を記しました。ヴーク・カラジッチはセルビア語の改革を遂行する際に、この原則を利用しました。ヴークの主要な作品により現代セルビア語の基礎が築かれたのです。 

ヴーク・カラジッチ(1787~1864)はトルコ支配下のセルビアで生まれました。その当時、教育はまだなかなか国民の手の届かない時代でした。そこで彼は、その地方で唯一読み書きのできる親戚に、読み書きを習いました。その後さらに修道院で教育を受けました。1804 年、第一次セルビア蜂起が起こった時、反乱軍の下で筆記係として働きました。彼は同時に民間伝承(歌謡、諺、なぞなぞ)を収集しました。第一次セルビア蜂起が失敗に終わると、ヴークはオーストリア・ハンガリー帝国に赴き、ウィーンに住むことになりました。そしてそのウィーンで、最初のセルビア語の標準的話し言葉の文法書とセルビア語の伝承詩集を刊行しました。ヴークの時代、セルビア語の文語(書き言葉)は古代スラブ語とロシア語のごちゃまぜという混沌とした状況を呈していました。ヴークはセルビア文学にセルビア標準口語を導入するために闘いました。ヴークにはセルビア人自身の中にセルビア語改革に対する強力な反対者がいたのですが、彼らには卑俗な農民の言語は必要ないと、彼らはヴークを非難しました。 

1847年はヴークが改革に勝利した年とみなされます。セルビア口語がセルビア人の唯一の真正の言語であり、その言葉で、詩や哲学などを書くことができると言い切ったのです。その年にセルビア標準口語で数冊の本が出版されましたが、その中に新約聖書もあります。 

ヴーク・カラジッチはセルビア語の諺や格言を献身的に収集しました。ヴ―クは、諺や格言の由来する故事来歴を記録するのが好きだったのです。というのも彼の言葉によれば、故事来歴無しには、他の国々の人々はもちろんのこと、すべてのセルビア人自身が多くの諺や格言を理解することができるとは限らなかったからです。いくつか例を挙げてみましょう。 

『熊のご奉仕』:最上の善意でもってお仕えした結果損害を与えてしまったり、時には最悪の出来事を招いてしまうこともある。ヴ―クは次のような話を記載しています。ある人が熊を救ってやったので熊は感謝の気持ちでいっぱいでした。その人が横になり眠りにつくと、ハエがその頭の上に止まりました。熊は、ハエがその人の眠りの妨げにならないように、そのハエを殺してやりたいと思いました。そこで石を手に取ると、思いっきり力まかせにそのハエを殴りました。ハエはもちろん死にました。が、その人もおまけに死んでしまったということです。

『手斧がはちみつの中に落ちる』:誰かに何か良いことが起こった時、幸運により思いがけず誰かが微笑んだり、物事がうまくいったりした時、こう言います。はちみつは論理的に理解できますが、なぜ手斧なのでしょうか。ヴークは次のように書いています。人々が木を伐っているときに、野生のミツバチがそこに集めておいたはちみつを偶然見つけたら、それを幸運と思うのです。 

『頭をカバンの中に置く』:厳しい、死の危険に遭遇したり、命がけの危機に直面すること。昔、戦や決闘に勝った証拠として、敵の首を切り、主人に持っていくという習慣がありました。トルコ支配の時代に、首を切りカバンに入れて持っていくということが19世紀半ばまで続きました。 

長い冬の夜の間に、人々は近所のだれかの家に集まったりしました(“poselo”と呼ばれる)。年を取った人々が、熱い暖炉の周りに座り、彼らの周りに若い人々が座って、過去の戦や遠い異国の昔話に耳を傾けました。そこが、民間に伝承した古い詩が歌われ、昔話が語られる場所でした。子供たちはなぞなぞが一番好きでした。ヴークが書き留めた、古いなぞなぞをいくつか書いてみましょう。 

⒈ 森の中のちっちゃい一本足はなーんだ? (きのこ) 

⒉ 軒下にちょっと姿を現す白いニワトリはなーんだ?(歯) 

⒊ たくさん生徒がいるのに、どこにもドアがないのはなーんだ? (すいか) 

時は過ぎ去り、世も改まったが、民間伝承はこれから先も私たちの間で生き続ける。ヴーク・カラジッチと彼の支持者たちのおかげで、私たちはその宝を失わないでいます。

翻訳/本田昌弘

<了> ※次ページはセルビア語


【文/本田スネジャーナ】セルビアの首都ベオグラード生まれ。ベオグラード大学にて電子工学を学んだのち、89年に結婚を機に福岡に来日。フリーランスの英会話講師として勤務しつつ、セルビアの文化を講演会や料理教室を通して積極的に発信している。また、ボランティアとして日本語教室でも講師を務めている。セルビアの雑誌「Novi magazin」にて日本の紹介記事を執筆中。三児の母。

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