【文/本田スネジャーナ】
優雅な恋愛小説を読むのが嫌いな人はいませんよね。すぐに忘れてしまうものもあれば、ずっと心に残るものもあります。世界文学の中でどの恋愛小説があなたにとって一番の愛読書でしょうか。
疑いなく最初に思い浮かぶのはシェークスピアの『ロメオとジュリエット』でしょう。この二人は文学作品の中で最もポピュラーなカップルであり、悲劇的な最期は言わずもがな、純愛のシンボルです。この二人の後に来るのはどのカップルでしょう。『高慢と偏見』のダーシー氏とエリザベスベネット嬢、それとも『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラとレット・バトラーでしょうか。もしセルビアの誰それに尋ねてみたら返事はおそらくアンナ・カレーニナとブロンスキー伯爵のカップルになるのではないでしょうか。
それはトルストイ作の、既婚女性アンナ・カレーニナとブロンスキー伯爵の悲劇的な恋愛小説です。ブロンスキーに注がれる情熱的な愛情と保守的な社会の批判に引き裂かれて、カレーニナは八方塞がりの状態に追い詰められます。そして物語は悲劇的な終末を迎えます。彼女は列車に身を投じることになるのです。一方ブロンスキーは死地を求めるかのように、トルコと戦うためにセルビアへと向かいます。
当時はまず小説は雑誌に連載されるというのが一般的でしたので、小説アンナ・カレーニナも最初に「ロシア報地」という雑誌に連載され、その後本として出版されました。連載は1875年から1877年の間続き、トルストイが小説の中で触れているセルビアとトルコの戦争は1876年6月から1878年3月まで継続しました。トルストイが自作の着想を実際の出来事から得たというのは周知の事実ですが、なぜトルストイはセルビアトルコ戦争で戦わせるためにブロンスキーをセルビアに送ることで小説を終わらせたのでしょうか。ブロンスキー伯爵のモデルになるようなインスピレーションを与える人物が実在して、セルビアに出征した後その人物に何かが起こったのでしょうか。
トルコ支配からのセルビア独立戦争にはロシアの大きな支援がありました。
ロシア志願兵がセルビアに加わり、セルビア軍と共に戦いました。ロシア志願兵の中にニコライ・ニコラエヴィッチ・ライエヴスキー伯爵という人物がいます。対ナポレオン戦争のボロジノの戦いで勇名を馳せた英雄ライエヴスキー将軍の孫に当たる人です。ライエヴスキー将軍についてはトルストイが長編小説 『戦争と平和』の中で触れています。私達セルビア人は、トルストイがブロンスキー伯爵の人物像を創り出す際に、このロシア志願兵のライエヴスキー伯爵がトルストイにインスピレーションを与えたと信じて疑いません。
さて、いよいよ話も大詰めです。ライエヴスキー伯爵はブロンスキー同様ロシア軍の大佐でしたが1876年8月21日戦死してしまいました。セルビアに到着して二週間後、トルコ軍との戦闘中でのことでした。Gornji Adrovci 村の戦死した場所に、彼の家族は聖三位一体教会を建てました。ライエヴスキー伯爵の遺骸は一度セルビアの聖ロマン修道院に葬られ、その後ロシア(現在はウクライナ)の一族の墓地に持ち帰られ埋葬されました。伯爵は死の直前こう語ったと伝えられています。「もしこのまま死ぬのなら、私の心臓はこのセルビアに残したまま、残りの遺体だけをロシアに持ち帰って欲しい。」と。またその言い伝えによると心臓は聖三位一体教会から程近い聖ロマン修道院に葬られているとのことです。
最後に『アンナ・カレーニナ』から文を引用してみましょう。トルストイはブロンスキーとアンナ・カレーニナの二人の話をこんな風に始めています。「幸福な家族はどれも同じようなもので、似たり寄ったりだが、不幸な家族はそれぞれ異っており、自前のものである」
翻訳/本田昌弘
<了> ※次ページはセルビア語
【文/本田スネジャーナ】セルビアの首都ベオグラード生まれ。ベオグラード大学にて電子工学を学んだのち、89年に結婚を機に福岡に来日。フリーランスの英会話講師として勤務しつつ、セルビアの文化を講演会や料理教室を通して積極的に発信している。また、ボランティアとして日本語教室でも講師を務めている。セルビアの雑誌「Novi magazin」にて日本の紹介記事を執筆中。三児の母。