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アルベルト・アインシュタイン ー セルビアの義理の息子/ミレヴァ・マリッチ・アインシュタインについての覚書

ミレヴァ・マリッチ(左)とアルベルト・アインシュタイン

【文/本田スネジャーナ】

アルベルト・アインシュタインは世界的に有名な科学者の一人であり、くしゃくしゃになった白髪頭の好好爺として敬愛されている。相対性理論など埒外の人でも彼の名前と風貌は知っている。彼は科学に対する貢献により人々の崇め奉る存在にまでなった。それにしても彼もまた死を免れ得ぬ常人ではあるのだが、彼の性格の否定的な側面はほとんど世人に知られていない。彼は父として失格であり、夫としてはさらに風上にも置けぬ存在だった。結婚前に生まれたミレヴァとの最初の子供には会おうともせず、その存在すら隠そうとした。アインシュタインとミレヴァとの関係は二人がまだチューリヒ総合技術学校の時に始まり、ミレヴァにとっては悲劇的な終わりを告げた。それについて詳述してみよう。 

ミレヴァ・マリッチは1875年オーストリア=ハンガリー帝国(現セルビア)のティテルで誕生した。裕福な家庭であるマリッチ家の三人の子供達の一番目の子として生まれた。とても優秀な生徒で、特に数学の才能に溢れていた。父親のミロシュはとても教育熱心で、子供達に可能な限り良い教育を与えようと努め、そのために大財さえなげうった。1896年夏ミレヴァはチューリヒの医科大学に入学したが同年10月には国立総合技術学校の数学・物理研究科に転校した。科の中で紅一点であり、また21歳で最年長であった。同じ科の中に17歳で最年少のアルベルト・アインシュタインがいた。 

ミレヴァにとって最初の数年間の学業は大いに満足のいくものだった。博士号を取り学校に残って教授になることを心に描いていた。しかしながら彼女とアインシュタインの間に燃え上がった恋愛が彼女の学業の妨げになってしまった。1900年アルベルトは卒業し、ミレヴァは研究助手として働きながら学業を続けた。 

1901年7月ミレヴァは二度目の卒業試験に不合格。その理由は、ミレヴァが妊娠していたこととそれにもかかわらずアインシュタインの両親が、ミレヴァとの結婚に反対したことである。ミレヴァは当時ノヴィ・サドに住んでいた両親の元に行き、娘を出産したが、その娘のその後の行方は不明である。幼くして亡くなったのかそれとも養子に出されたのかわからない。ミレヴァとアインシュタインはやっと1903年1月6日にベルンで華燭の典を挙げた。アインシュタインは既にベルンの特許局で働いていた。 

ミレヴァがアインシュタインの初期の研究にどの程度貢献したのかについては今日に至るまで喧々諤々としていて定説はない。当時の手紙によれば、ミレヴァがアインシュタインに手助けしていたことが明確に見て取れるし、最初の科学論文には二人の署名まで記してある。とは言え二人の関係は1904年長男ハンス・アルベルトが生まれた後徐々に変化していった。研究における熱い協力関係が夫婦関係の冷却へと変化して行った。1910年の次男エドワルドの誕生も夫婦関係の好転に繫らなかった。そのうちアインシュタインはいとこのエルザと手紙をやり取りするようになり、彼女との結婚を望むようになった。ミレヴァには、夫婦関係をもし続けたいのなら順守しなければならない用件の数々をリストに書いて与えた。例えば、彼の部屋を清潔に保つこと。上着と下着はいつでも着られるよう整理整頓しておくこと。毎日3 回の食事を準備すること。アインシュタインから配慮や好意を期待しないこと。静かにして欲しい時は沈黙を保つこと等々。ミレヴァは全てに同意したが無駄に終わってしまった。夫婦は1914年別居し、ミレヴァは子供達と一緒にチューリヒに転居した。5 年後二人は離婚。同じ年にアインシュタインはエルザと結婚した。 

離婚の際の合意事項として、アインシュタインがノーベル賞を受賞した場合にはミレヴァに賞金全額を渡すことを約束した。1921年アインシュタインはノーベル賞を受賞し、その賞金でミレヴァはチューリヒに三軒の家を購入。その賃貸料で生活することになった。しかし、次男のエドワルドが幼い頃から病気がちで精神科で治療するために多くのお金を必要とした。彼は20歳の時統合失調症と診断された。アルベルト・アインシュタインは 1933 年アメリカに移住したが、それ以来二度と次男に会うことはなかった。アインシュタインは長男をア メリカに呼ぶと1938年長男は父の元に向かった。ミレヴァは次男と一緒にチュ ーリヒに住み続けた。 

当時の証言によれば、ミレヴァは身なりに無頓着で衣服も粗末だったけれども結婚指輪は離婚後もはめていたと言う。エドワードの治療費を按配するため二軒の家を売ってしまい、無一文になった末、遂にアインシュタインに助けを求めた。彼女が住んでいた三軒目の家を次男の治療代のために売らざるを得なくなった時、アインシュタインは彼女が終生その家に住めるようにだけはしてやったのだった。 

ミレヴァ・マリッチは1948年に永眠した。彼女が死去するまで住んでいたチュ ーリヒに埋葬された。時とともにミレヴァの墓は誰からも顧みられなくなり、遂には空にされ、その遺骨は共同墓地に移葬された。哀れなことに彼女は死の後墓までも失なってしまった。 

次男エドワードは1965年にチューリヒの精神病院で息を引き取った。55 歳だった。 

長男ハンスは技術者として、またカリフォルニア州立大学バークレー校の教授として成功を収めた。彼の死後、彼の息子つまりアインシュタインの唯一の孫だけが生き残っていた。 アルベルト・アインシュタインは1955年栄光と尊敬に包まれつつ永眠した。

翻訳/本田昌弘

<了> ※次ページはセルビア語


【文/本田スネジャーナ】旧ユーゴスラヴィア(現在セルビア)に留学中だった主人と出会い、後に結婚。1989年に来日。三児の母。福岡県国際交流センターの講師。久留米日本語教室ボランティアの先生。

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