【文/町田 小織】
※文章を読むよりも、声を聴く方が楽な方は、以下の内容を音読した音声データもご利用頂けます。右の縦三点リーダー「︙」をクリックすると、再生速度を変更することができます。
今年(2022年4月)から週1回、京王井の頭線に乗り、駒場東大前駅を眺めています。何十年ぶりでしょうか。駒場東大前で下車するわけではなく、その先の駅にある大学で非常勤講師をしているからなのですが、毎回物思いにふけっています。
東京大学駒場キャンパス
学生時代、この駅を週3回利用していました。東京大学の柴宜弘先生の授業に参加するためです。教養学部で開講していた第三外国語としてのセルビア語・クロアチア語、学部のゼミ、大学院総合文化研究科のゼミに毎回休まず通っていました。東大生ではないにもかかわらず。
当時セルビア語を学べるところはほとんどなかったので(現在もありませんが)、駒場の授業は貴重な場でした。セルビア語なんて勉強する物好きはいないだろうと思っていたら、教室には30人くらいの学生がいて、初日から驚いたことを覚えています。こんなマイナーな言語(できるようになったからといってあまり役に立つとは思えない)なのに、セルビア語を学ぼうとする人がこんなにいるのか・・・これが「駒場」なのかと、ひとり学外者の私は感心していました。
授業外の交流
前回のエッセイ(「私とセルビアの相関図―原点回帰のための原像回顧―」)で述べた通り、私は柴先生の正統な門下生ではないのですが、非常にお世話になりました。セルビア政府奨学生としてベオグラード大学哲学部歴史学科に留学し、ミロラド・エクメチッチ(Milorad Ekmečić)先生の下で学ぶことができたのも、先生のお導きによるものです。My Serbiaを考える際、私にとって先生は一番重要な人物なのです。そのご恩返しもできないまま、2021年5月28日に逝去されました。そのひと月前、4月22日に先生から頂戴したメールが最後のやりとりとなってしまいました。ちょうど2021年春に『メディアとしてのミュージアム』が刊行されたので、それをお贈りした時です。
柴先生とは、学生時代を除けば、セルビア大使館でのイベントや「シネマ・(ポスト)ユーゴ」*でお会いするくらいの関係でした。それほど頻繁にお会いしていたわけではありませんし、私は先生の弟子でも共同研究者でもありません。それでも先生は、年賀状をお送りすると必ず返してくださる律儀な方でした。そのおかげで、最後まで関係性を継続できたといえます。
学生時代、先生は授業の後、飲み会に連れて行ってくださることがありました。そして学生には払わせない方だったので、毎回ご馳走になっていました。そこで印象に残っているエピソードがふたつあります。ひとつは、自分は下町育ちだから、山の手に憧れていたというお話。もうひとつは、田中一生先生の家にセルビア語を習いに行っていた時、必ずと言っていいほど食事をご馳走になったというお話。今でも先生が煙草をくゆらせながら、顔をくしゃくしゃにして笑う姿が目に浮かびます。
セルビア留学
初めてセルビアを訪れた際、現地で柴先生にお会いすることができました。出張中というのは普段以上に貴重な時間だったと思うのですが、私や他の日本人学生を誘ってホテルのカフェでアイスコーヒーを飲んだり、エクメチッチ先生のご自宅に一緒に行き、奥様の手料理をご馳走になったりしました。当時は日本以外の国でアイスコーヒーを飲む習慣はあまりなかったので、「珍しいから飲んだらいい」と勧めてくださったことを覚えています。そしてこの時(初訪問時)、エクメチッチ先生にお会いしていたこともあって、翌年の留学でエクメチッチ先生が指導教授になってくださったのだと思います。そのエクメチッチ先生も2015年に他界しています。
ベオグラード大学留学から帰国してまもなく、外務省欧州局中・東欧課から自宅に電話がありました。当時旧ユーゴスラヴィア諸国の大使館を兼轄していた在オーストリア日本大使館の専門調査員のお話でした。柴先生からのご推薦ということで、連絡先を知ったようです。罰当たりなことに、私はせっかくのオファーをお断りしてしまいます。日本に帰ってきてホッとしたところだったのと、日本の大学院を休学して(授業料を半額納めて)留学していたので、再度休学することは難しかったためです。もしお受けするとすれば、大学院を退学して渡航するのが現実的だったと思います。その選択は、当時の私にはリスキーに映りました。
しかし、後で後悔したことは言うまでもありません。せっかく先生が用意してくださったチャンスをみすみす手放したのですから。既に現地で専門調査員を経験されていた柳田美映子さんには「行けば良かったのに~」と言われました。また専門調査員の先輩として齋藤厚さんもいらしたわけですから、環境としては恵まれていたと思います。以降、お声がけ頂いた仕事の依頼は、原則お断りしないようにしています。これも先生から間接的に教えて頂いた教訓かもしれません。
平らな人
柴先生は本当に「平らな」人でした。一学生に対しても全く偉ぶらず、尊大なところが一切ない方でした。柴先生をはじめとする、人間的にも尊敬できる先生方に出逢い、ご指導頂けたことを文字通り”有難く”思っています。
現在は新型コロナウィルス感染拡大の影響により、学外者の入校が制限されている大学があります。またそれ以前でも、科目等履修生や単位互換の手続きをしていないと、他大学の授業を受講することは難しくなっていました。今だったら柴先生にお会いすることも、授業を受けることもなかったかもしれないと思うと、私は本当に幸運だったなと感じ入っています。
少なくとも今年一年は毎週、駒場東大前駅を通ります。きっと先生への感謝の念を忘れず、ご遺志を継ぐようにという天啓なのではないかと、勝手に解釈しています。先生のような研究者にはなれませんでしたが、セルビアや他の旧ユーゴスラヴィア諸国のために尽力することが、私の使命なのかもしれません。先生にお返しできなかったご恩を、そのような形で返していくことが、先生への供養にもなると信じています。一周忌を迎える今、あらためて先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
*シネマ・(ポスト)ユーゴ:主に平野共余子さんと山崎信一さんが企画し、2009年より東京都内の複数大学を会場にして開催されている、旧ユーゴスラヴィア地域に関係する映画の上映会
補記:柴宜弘先生が写っている画像は、柴理子先生に許諾をとりました。厚く御礼申し上げます。
【文/町田 小織(まちだ さおり】セルビア政府奨学生としてベオグラード大学哲学部歴史学科へ留学。ミロラド・エクメチッチ教授に師事。ベオグラード大学言語学部日本学科にて非常勤講師。2013年度より東洋英和女学院大学に勤務し、現在に至る(所属:国際社会学部国際社会学科)。2016年度よりセルビア大使館と連携した科目(PBL)を立ち上げ、7期生まで輩出。 2022年度は同大学生涯学習センターにて大使館と共催の講座開講。主な著書に『メディアとしてのミュージアム』(春風社)。