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カラジョルジェと第一次セルビア蜂起

【文/本田スネジャーナ】

偉大な英雄で第一次セルビア蜂起の首領でもあったカラジョルジェを知らない者はいない。そしてまた彼が裏切られ殺されたことも。しかしながら、もしかしたらそれほどよく知られていない細かな事があるかもしれないので、もう一度彼に関して語ってみるのもいいだろう。

カラジョルジェ

おおよそ 1768 年に大勢の子供を抱えた貧しい家族に彼は生まれた。はっきりした日付はわかっていない。当時お祈りしていた聖人から彼をジョルジェと名付けた。大きくなると糧を得るために働きながら父親を助けた。二メートルほどの長身と黒い髪で目立った。当時の習慣に従って、若くして結婚した。セルビアはトルコの支配下にあり、人々の生活は楽ではなかった。その理由がトルコ人を殺したり租税を支払わなかったりなどのどれに当たるかはわからないが、ジョルジェは家族とともにオーストリア領スレムに逃れなければならなかった。ジョルジェ一家にもう数家族が加わって、ジョルジェは既に 30 人から 40人になった集団を率いてた。途中父親が心変わりして、セルビアに帰りたいと言い出した。難儀な時に窮した結果の決断だった。ジョルジェは父親を手に掛け、スレムへの道のりを急いだ。オーストリアに到着した際、ジョルジェはオーストリア‐トルコ戦争(1788‐1791)の志願兵だと申し出た。そこで彼は軍事的な技術の基礎知識を得た。オーストリアとトルコとの間の平和協定締結後、避難していたセルビア人達はセルビアに帰ることを許され、ジョルジェも家族とともに帰った。トポラに引っ越し、その地で素封家となり、人々を煩事から助けてやった。平和な時には畜産に従事し、世が乱れた時には盗賊を働いた。彼は盗賊の首領であり、盗賊部隊の司令官だった。その後、皆彼のことをカラジョルジェ、もしくは黒ジョルジェと呼ぶようになった。人々は彼の短気な性格を恐れた。人々が信じるところでは、トルコ人は彼の名前の前にトルコ語で「黒」を意味する「カラ」を付け加えた。というのも彼らはジョルジェを恐れていたからだ。弟が恥知らずな行いをした時、怒髪天を衝く中、血肉を分けた弟をも殺してしまった。

時代は風雲急を告げていた。トルコは徐々に往時の力を失いつつあり、偉大なるオスマン帝国の統一を維持することは不可能になりつつあった。帝国はイェニチェリの反乱で軋んでいた。1798年から1801年に勃発したエジプトとシリアにおけるナポレオンとの戦争のため、オスマン帝国正規軍の大部分がバルカン半島から引き揚げていた。そのことが、イェニチェリやトルコ人総督達に、ベオグラードのトルコ高官支配地の支配権を奪取し、恐怖による支配を確立するする機会を与えることになった。それから新たな税や貢物などを導入することになった。1804年の初め、トルコ人総督の抑圧はセルビア人首領を切り殺すことでエスカレートしていった。多くの傑出したセルビア人が殺されたが、殺戮を免れたセルビア人の中にカラジョルジェもおり、彼らはアランジェロバッツのオラシャツに糾合した。およそ三百人の反乱軍兵士はリーダーを選ぶことにした。三番目に指名されたのはカラジョルジェだった。カラジョルジェは反乱軍の指導者になることを受け入れた。四月の終わりには、もうシュマディヤ全体がトルコ人から解放された。反乱軍はベオグラードに近づきつつあり、その数は一万人に増えていた。

セルビアの民族蜂起を鎮静化するために、トルコ皇帝は憎まれていたベオグラード総督を処刑するよう命令し、反乱軍と交渉を始めるよう命じた。トルコ皇帝は、武器を放棄しセルビア軍は解散するよう要求したが、反乱軍は拒否した。ベオグラード総督に対する反乱は、トルコ支配に対する反乱へと大規模になっていった。1805年八月十八日、イヴァンコヴァッツで干戈を交えたが、これは第一次セルビア蜂起の大きな戦の中の一つである。反乱軍は圧倒的多数のトルコ正規軍に連戦連勝した。このことで、彼らの自己の力に対する信頼が弥増しに増していった。

その時代は、列強国の関係に変化が兆していた。ロシアは対ナポレオン戦争でトルコ帝国と協力していたので、セルビア反乱軍にはあからさまな支持は与えなかった。露土戦争(1806‐1812)が始まった。この時ロシアはセルビアに率直に支持を差し出した。しかしながらセルビア国家の独立の夢は1812年に露と消えた。というのもロシアは迫り来るナポレオンの侵略のために、トルコとブカレスト平和条約を結ばなければならなかったからだ。平和条約の締結にはセルビアについても言及されていた。

カラジョルジェはヨーロッパの情勢を理解しておらず、平和協定を拒否した。トルコはセルビアを攻撃し、1813年に第一次セルビア蜂起の崩壊に至るまで続いた。カラジョルジェは最初はオーストリアに逃げ、そこからロシアに向かって出発した。援助を期待できるロシア皇帝に紹介してもらう機会を七ヶ月間待った。当時はヨーロッパも平和を取り戻し、ロシア皇帝は彼に何も約束してくれなかった。何の援助も貰えなかった。そこでギリシャ人のグループと知り合った。彼らもまた全バルカンの解放を目指してトルコ人と戦いたがっていた。彼らの助けによって1817年、カラジョルジェは秘密裏にセルビアに帰還した。

セルビアの状況は以前と異なっていた。権力の座にはミロシュ・オブレノヴィッチがいた。彼は1815年の第二次セルビア蜂起において部分的な自治を勝ち得ていた。外交的道筋を踏まえた上で独立国家セルビアへの道を築きたいと思っていた。カラジョルジェのセルビアへの帰還は彼の立場を危ういものにした。カラジョルジェはセルビアを最も困難な局面へと陥れた。カラジョルジェは舞い戻って来て、人々がまた再び戦争へと立ち上がることを望んだのだ。セルビアは血を流し傷つき、新たな戦いの準備は出来ていなかった。カラジョルジェに賛同するものは誰一人いなかった。彼が信じた人々でさえも彼を見捨てた。カラジョルジェが殺されるようミロシュが求めた時、カラジョルジェはヴイッツァ・ヴリチェヴィッチの許に身を潜めていたが、そのヴイッツァ・ヴリチェヴィッチが彼を殺害した。カラジョルジェの首はイスタンブールの皇帝の許に送られた。

このような裏切りと殉教的な死の後に、カラジョルジェのすべての悪事は忘却され、彼は霊感を与える偉大な英雄的人物として記憶に残った。ロシアの詩人プシュキンは彼についての詩を書き、ニェーゴッシュは「ゴルスキー・ヴェーナッツ(山の花環)」を彼に捧げた。

ラドヴァニィスキー・ルーグでのカラジョルジェの殺害はセルビア民族に最も深刻な分断の一つを生ぜしめた。二つの王朝つまりカラジョルジェヴィッチ家とオブレノヴィッチ家の闘いはそこから始まった。そしてそれは十九世紀全体を特徴づけている。

不名誉な行いゆえの後悔のしるしとしてヴリチェヴィッチは、後悔教会を建てた。今日それは女修道院である。

カラジョルジェが殺害された場所に建つ教会
カラジョルジェが最初に埋葬された地
ヴイッツァ・ヴリチェヴィッチがカラジョルジェ殺害を悔い改め、建設した教会。現在は修道院。

翻訳/本田昌弘

 ※次ページはセルビア語


【文/本田スネジャーナ】セルビアの首都ベオグラード生まれ。ベオグラード大学にて電子工学を学んだのち、89年に結婚を機に福岡に来日。フリーランスの英会話講師として勤務しつつ、セルビアの文化を講演会や料理教室を通して積極的に発信している。また、ボランティアとして日本語教室でも講師を務めている。セルビアの雑誌「Novi magazin」にて日本の紹介記事を執筆中。三児の母。

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