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2.3kmのマラソン【ベオグラード雑記帳・第3回】

【文と絵/竹内 まゆ

はじめに

先月、ベオグラードマラソンに参加した。1988年に始まったこのマラソン大会は今年(2025年)で38回目を迎えた。内戦のあった年にも開催されたそうだが、非常事態下にあって日常を取り戻そうという人々の想いもあったのだろう。現在はベオグラード市民に愛されているイベントであるのはもちろんのこと、セルビア国内外から多くのマラソン愛好家たちが参加している。

このマラソン大会にはフルマラソン、ハーフマラソン、10kmのコースに加えて、英語では”FUN RUN”(セルビア語:”Trka zadovoljstva”)と呼ばれる2.3kmのコースがある。名前のとおり「楽しく走る」ことを趣旨としており、順位やタイムを競うことがないコースだ。申し込み不要で参加費は無料、誰でも参加できる。今回の記事では、この2.3kmのマラソンの参加レポートをイラストを交えながらまとめてみた。

コースマップ

FUNRUNのコースは、国会議事堂前をスタートしたあと、クラリャ・アレクサンドラ大通りを直進し、聖マルコ聖堂が見えたあと右折してスラヴィア広場をめざす。聖サヴァ大聖堂を背にしてクラリャ・ミラナ通りを進み、高層ビルのベオグラジャンカやホテル・モスクワを左手に、宮殿を右手に眺めつつ、最後はパレス・アルバニアという名前がついたビルが見えるあたりがゴール地点となっている。

©Mayu Takeuchi

マラソン開催中は歩行者天国になるため、いつもと違う視点で街並みを眺められるのも楽しい。ビザンティン様式の宗教的建造物に加え、ネオルネッサンス建築にロマン主義建築、共産主義時代を象徴するような建物…旧市街にはさまざまな時代の建築様式が混在し、独特な街並みを形成している。2.3kmの短いコースを走るだけでも、この街の歴史の複雑さが感じられるだろう。アルバニアにモスクワ、他の国や都市の名前がついた建物があるのも面白い。

会場に到着、スタート

今年(2025年)の開催日は4月6日。2022年から毎年参加しているが、今年は例年よりも早めの時期の開催となった。当日の気温は7度。はらはらと雪が舞い、こんな日にマラソンはほんとうに開催されるのだろうかと不安になりながら、4歳の息子を連れて13時の開始時刻に合わせてスタート地点の国会議事堂へ向かう。道の途中、すでにコースを完走しメダルをぶら下げたランナーたちとすれ違った。

国会議事堂前に到着すると、多くの人々で賑わっているが、気温は低いまま。ぶるぶる震えながら冬物のダウンジャケットのファスナーを上まできっちり閉じる。しばらくしてセルビア国歌が流れたあと、カウントダウンがあり一斉にスタートした。

インクルーシブなマラソン

最初のスタート地点こそ混雑するが、そのあと参加者たちは各々のペースで前進することになる。ほとんどの参加者は家族連れで、子どもたちの姿を多く見かける。幼児連れのランナーは、ベビーカーに子どもを乗せていたり、子どもと一緒に走ったり、抱っこで移動していたり…。大人たちは風の冷たさにひるむが、子どもは風の子。軽装で駆け抜けてゆく。キックボードやローラースケート、お気に入りの移動手段を持ち込んでいる子も多い。

今年は寒さのせいか高齢者はあまり見かけなかったが、子・母親・祖母という親子三世代で参加している人たちもいた。大人の参加者たちは、いかにも”ランナー”という見た目の人はほぼいない。足元はランニングシューズではなく普通のスニーカーだ。犬を連れた人や、妊婦もいる。スペシャルニーズのある人々の団体は毎年参加しているようだ。このマラソンコースには参加条件は設けられていない。年齢制限もなく、障害の有無も関係ない。順番を競うことなく、すべての人に開かれているインクルーシブなマラソン大会は、競争社会ではないセルビアの首都で開催されるのにぴったりだと感じる。

©Mayu Takeuchi

私は息子が2歳の時から彼と一緒にこのコースを毎年走っている。幼児とのマラソンは、コースの脱走や逆走、とつぜん立ち止まるなどハプニングの連続だが、このマラソンに設けられたルールといえば、とりあえず前に進んでいればよい、ということくらいだ。

コース参加中の禁止事項は開始前に告げられなかったし、公式のwebサイトで探してみても情報は何も見つからない。ローラースケートにキックボード、ベビーカー、車椅子、そして犬…大勢の人が一斉にゴールをめざすなか、事故があったらどうするの?そんなことを思うかもしれないが、大きなトラブルは起きていないようだ。決められたルールは最低限で、あとはそこに居合わせた人が譲り合ったり、柔軟に対応することでその場がうまく成り立つ。人と人の間のあいだにある信頼に多くが委ねられている点がセルビアらしいと感じる。安全管理とトラブル回避が徹底しているのは日本の良いところでもあるが、こんなにのんびりしたゆるゆるのマラソン大会の開催は日本では難しいのかもしれないと思う。

ゴールをめざして

さて、この記事を読んでくださっている方の中には、マラソン大会で最下位になったことのある方はいるだろうか。私はある。学校の運動会で、気が付いたら最下位を走っていた。自分がビリであることをなぜ知ったかというと、コースの外から届く声援と、特別な熱いまなざしだ。自分のペースで走り続けていただけなのに、とつぜん全身に浴びせられるクラスメイトの保護者からの「がんばれ〜」には強烈な違和感しかない。がんばる気は全く起きず、ただただ恥ずかしさだけが込み上げてくる。そのときに感じた強烈な気持ち悪さ、ふと思い出すときがある。悪意はなくても憐れみのこもったまなざしや、本人の望まぬ声援は人の心を傷つけることもあると思う。

このコースの良いところは、首位を走っているのは誰か、誰も関心を持たないということだ。同時に、最下位が誰かということも注目されることがない。このコースには、障害者団体の参加者も多い。参加者みなに対してもそうだが、障害者やその伴走者(親の場合もある)に対して、特別なまなざしが向けられるようなことがなく、沿道からの声援がない。参加者たちは淡々と前に進む。みな自然体でゴールを目指す、そこが良いのだ。ゴール地点付近では、完走した障害者団体の方たちが記念撮影をしていたりディプロマを受け取っていたりして、清々しい気分になる。

参加者の中には、見た目ではわからない病気や障害を抱えた人もいただろう。妊婦や育児中の女性も多く参加している。妊娠・出産を経て、育児の真っ只中にいる人は、自分のことは後回しにして、子どもに果てしない時間と労力を注ぎ込まざるを得ない。体力も精神力も削られ、誰にも称賛されることなく、社会から断絶されたように感じる日々のなか、マラソンに参加することは、2.3kmの距離を完走しただけでも達成感を味わえる貴重な時間かもしれない。それぞれにとって、完走することの意味はどんなことだろう。次々とゴールする参加者たちの背中を見つめながらそんなことを思った。

このコース、セルビア語では「Trka zadovoljstva」という名前がついているが、”Trka”は「コース」、”zadovoljstva”は「楽しみ」や「満足」という意味を持つ。走り終わったあと、心が満たされるような気分になったのは私だけではないはずだ。


©Mayu Takeuchi

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